東京地方裁判所 昭和57年(ワ)731号 判決 1989年4月18日
原告
神林共弥
外六一名
以上六二名訴訟代理人弁護士
西田公一
同
山田伸男
同
服部弘志
同
中田裕康
同
江藤洋一
同
平野和己
同
藤本時義
同
須藤修
被告
国
右代表者法務大臣
高辻正巳
右指定代理人
城正憲
外二名
主文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
(当事者の求めた裁判)
第一 請求の趣旨
一 被告は、別紙原告別請求金額一覧表「原告名」欄記載の各原告に対し、それぞれ右一覧表「請求金額」欄記載の金員及びこれに対する同「付帯請求起算日」欄記載の日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 仮執行宣言
第二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
(請求認容の場合)担保を条件とする仮執行免脱宣言
(当事者の主張)
別紙のとおり
(証拠)<省略>
理由
第一ソ連抑留の概況
以下の事実は、公知の事実である。
第二次世界大戦(以下、「第二次大戦」という。)は、昭和二〇年八月一五日我が国のポツダム宣言受諾及び同年九月二日のミズーリ号艦上での降伏文書への署名により終結するに至ったが、これに先立ち、ソ連は、同年二月のヤルタ会談での密約どおり、同年八月八日付けをもって、有効期限内にあった日ソ中立条約を一方的に破棄して、我が国に対し、宣戦を布告し、旧満洲及び朝鮮に侵攻し、日本軍を攻撃して、相次いで旧満洲、旧関東州、北部朝鮮、南樺太、千島の各地を占領した。
この間、我が国は、ポツダム宣言の受諾に伴い、対ソ戦線を収拾するため、日本軍に対し、同年八月一六日付け大陸命第一三八二号をもって戦闘行動の停止を命じ、また、同月一九日付け大陸命第一三八六号をもって同月二二日午前零時以降の作戦任務を解くなどの命令を発し、この結果、日本軍は各地においてソ連軍により武装解除を受けた。
武装解除を受けた日本軍将兵は、徒歩行軍によって主要都市に集結させられ、同年九月ころから、ソ連軍により逐次作業大隊を編成のうえ、シベリア、中央アジア、ヨーロッパ、ロシア、極北、外蒙などに鉄道で輸送され、約二〇〇〇の地点の収容所に捕虜として分散抑留されて、強制労働に服せしめられた。
そして、ソ連以外の連合国占領地区における日本人捕虜がほぼ昭和二一年中に帰還したなかで、ソ連への抑留者はその後も抑留が続けられ、その帰還がおおむね完了したのは昭和三三年に至ってのことであった。
第二原告らとソ連抑留
一原告らの軍歴等及び復員に関する事実
以下の事実は、いずれも当事者間に争いがない(括弧内に記す事実については、当該箇所で示した証拠によって認定できる。)。
原告神林共弥は、昭和一九年一〇月二〇日満洲で応召して、第一三一二五部隊歩兵第二四七連隊に所属し、陸軍一等兵として終戦を迎え、同二三年一〇月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同香山実は、昭和二〇年四月一日現役入隊し、終戦時には第八三五五部隊所属の陸軍技術一等兵であり、同二四年九月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同江上敬次は、昭和一九年一二月一日満洲遼陽市に駐屯した第九七飛行場大隊に現地入営し、陸軍一等兵として終戦を迎え、約一週間後鞍山市において武装解除を受け、同二三年八月ナホトカから帰国した。
同本多幸自は、昭和一七年一月入営し、同一九年三月関東軍第六三部隊に配属されて渡満し、終戦時には陸軍技術上等兵であったが、同二三年八月復員した。
同大畑新一は、昭和一九年九月満洲第三六六部隊に現役入隊し、終戦時には関東軍第二五野戦自動車廠に所属する陸軍技術一等兵であり、同二三年ナホトカから帰国した。
同滝島作次郎は、昭和一八年三月召集を受けて渡満し、終戦時には第一〇八師団工兵隊の陸軍曹長として満洲国錦県にいたが、同二五年一月ナホトカから復員した。
同古村喜彦は、昭和二〇年七月一日満洲国ハルピンに駐屯した関東軍技術教育隊に入営し、陸軍技術二等兵として終戦を迎え、同二四年夏ナホトカから復員した。
同山田重治は、昭和二〇年八月五日応召し、陸軍二等兵として関東軍第三方面軍第三四軍麾下の第三七二四四部隊に入隊したが、戦後舞鶴に上陸して、復員した(上陸及び復員の日時は、弁論の全趣旨によって昭和二四年七月であると認定できる。)。
同天谷勇は、昭和一五年三月一日輜重隊陸軍曹長であったが、昭和二〇年八月武装解除を受け、同二四年一〇月二五日帰国した。
同星宮俊雄は、昭和九年一月二〇日歩兵第一七連隊に入隊し、同一八年八月関東軍第二五野戦貨物廠に転属、終戦時には陸軍少尉であったが、同二〇年八月一九日敦化において武装解除を受け、同二四年一二月ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同長内一雄は、昭和一七年召集を受けて弘前の歩兵連隊に入隊し、終戦時には北千島占守島独立歩兵二八三大隊に所属する陸軍兵長であって、同島で武装解除を受け、同二四年一二月ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同石川已記は、昭和一七年召集を受けて、終戦時には陸軍第四二教育飛行隊に所属する陸軍伍長であったが、ハルピンで武装解除を受け、同二三年ナホトカから復員した。
同山口茂は、現地召集を受け、満洲国西の野砲部隊に所属した後、興安総省興安憲兵分隊、朝鮮羅南の扶翼師団編成要員として順次転属し、陸軍伍長であったが、昭和二〇年八月二五日ころ朝鮮で武装解除を受け、同二五年二月九日ナホトカから帰国して、復員した。
同佐藤敬一は、昭和二〇年一月一〇日仙台東部第二二部隊に現役入隊し、奏第二一一五二部隊に転属して、終戦時には陸軍歩兵一等兵であり、同二四年九月ナホトカから帰国した。
同佐藤正壽は、昭和一七年一一月工兵第八連隊に召集入隊し、満洲虎林に駐屯した第四五野戦道路隊に編入され、終戦時には陸軍上等兵として関東軍臨時経理部幹部教育隊(城第一三〇八四部隊)に所属し、同二三年一一月二日ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同日下正は、昭和一六年満洲第二二九部隊に現役入隊し、終戦時には第一二八師団第九五九部隊に所属する陸軍伍長であったが、同二〇年八月上旬武装解除され、同二三年一〇月二三日ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同鈴木忠雄は、昭和一六年満洲で現役入隊し、終戦時には満洲第八三九五部隊に所属する技術曹長であり、同二四年八月ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同佐藤正敏は、昭和一八年歩兵第九〇連隊に現役入隊し、終戦時には第一〇七師団司令部副官部人事班に勤務していたが、ソ連により武装解除を受け、昭和二三年七月ナホトカから舞鶴に帰国した。
同大越蔵夫は、昭和二〇年一月七日召集を受け、会津若松で入隊して、朝鮮羅南に転属し、終戦時には陸軍曹長であり、同二三年一一月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同渋谷七郎は、昭和一九年二月召集を受け、終戦時には陸軍上等兵として独立混成四一連隊に所属していたが、千島松輪島において武装解除を受け、同二四年七月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同小林与平は、昭和一八年一〇月五日召集を受けて東部二四部隊に入隊し、満洲に渡り、遠征第一三八七部隊に所属していたが、終戦後満洲四平省で武装解除を受け、同二四年九月三〇日ナホトカから帰国した。
同廣瀬巌は、現役入隊し、終戦時には奉天の旅団司令部に所属していたが、同地において武装解除を受け、同二三年九月帰国した。
同藤本武文は、昭和一五年現役入隊し、終戦時には奉天の第八〇大隊に所属する陸軍伍長であり、同二三年一一月舞鶴に上陸して、復員した。
同川村長作は、昭和二〇年補充兵として召集され、衣第三〇四〇部隊として北支に派遣され、陸軍一等兵として朝鮮咸興で終戦を迎え、武装解除を受け、同二四年一〇月ナホトカから舞鶴に上陸して、帰国した。
同大野進は、昭和一八年二月二〇日中部歩兵第三八部隊に応召入営し、暁第六一四一部隊に配属され、陸軍上等兵として幌莚島に駐屯中に終戦を迎え、同島で武装解除を受け、同二三年八月眞岡から函館に上陸した。
同川村義一は、昭和二〇年四月一日満洲第一一航空情報連隊に配属され、同二三年六月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同荒川春香は、昭和一八年九月召集を受け、終戦時には独立歩兵第一〇九大隊に所属する陸軍一等兵であったが、朝鮮咸興において武装解除を受け、その後ソ連政府から中国政府に身柄を引き渡されて、撫順所在の戦犯管理所に収容され、昭和三一年七月三日舞鶴に上陸した。
同柳沢孔三は、現役入隊し、終戦時には陸軍甲種幹部候補生(陸軍軍曹)であったが、昭和二〇年八月一八日満洲横道河子で武装解除を受け、同二四年ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同吉田省三は、昭和一六年七月一五日東部第二部隊(近衛歩兵第一連隊)に臨時召集され、歩兵第三〇連隊補充要員として満洲国浜江省ハルピンに着き、同連隊に編入され、同二三年六月ナホトカから舞鶴へ上陸し、復員した。
同宮崎福造は、昭和一七年一月現役入隊し、同二〇年六月満洲へ転進し、終戦時には陣第二九九五部隊に所属する陸軍伍長であり、同二三年八月一二日ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同笹木孝は、昭和一九年教育召集を受けた後、満洲間島第三六八〇部隊に入隊し、終戦時には同隊所属の陸軍二等兵であったが、同部隊は同二〇年八月一七日間島で武装解除を受け、同原告は、同二二年一一月博多に復員した。
同藤澤文明は、昭和一九年一月一〇日、東部第三六部隊に現役入隊し、満洲鄭家屯に移駐して、終戦時には陣第一九三五部隊に所属しており、同二三年六月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同清水谷三郎は、昭和一九年七月一六日召集を受けて入隊し、終戦時は徳第七五八八部隊に所属しており、同二四年八月五日ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同滝澤善治は、昭和一九年三月二〇日東部第六部隊に現役入隊し、その後独立速射砲隊に転属し、同年一〇月から千島択捉島に移駐していたが、同島において終戦を迎え、武装解除され、同二三年一〇月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同島貫金助は、昭和一九年七月一〇日、補充兵として歩兵部隊に入隊し、同二五年二月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同川勝広次は、昭和二〇年七月二二日召集を受けてハルピンの部隊に入隊し、同所で武装解除され、同二四年七月二七日ナホトカから舞鶴に上陸して、帰国した。
同加藤新一は、昭和一六年八月一日召集を受けて満洲第七七兵站警備隊に勤務し、同部隊において終戦を迎え、武装解除され、同二三年六月一八日ナホトカから舞鶴に上陸した。
同安原栄一郎は、昭和一七年三月召集を受け、終戦時は満洲第二五野戦貨物廠に所属しており、敦化において武装解除を受け、同二四年八月三〇日ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同太平勝彦は、昭和一九年五月召集を受け、終戦時には陸軍一等兵であり、錦県において武装解除を受け、同二二年一一月一九日ナホトカから函館に上陸して、復員した。
同河野幸雄は、昭和二〇年三月召集を受けて西部第八五部隊に入営し、直ちに渡満して満洲歩兵第二六〇八部隊に所属していたが、同二四年九月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同松岡美樹は、昭和二〇年二月善通寺に集結し、輸送部隊に編成され、現役入隊した後、鶏寧の第四六二二部隊に転属し、陸軍一等兵であったが、武装解除を受け、同二四年一二月五日ナホトカから舞鶴に上陸した。
同森喬は、昭和一五年九月三〇日陸軍予科士官学校を卒業し、以後軍役に服し、終戦時には陸軍大尉として第一二二師団歩兵大二六六連隊に所属しており、同二二年一一月九日ナホトカから函館に上陸して、復員した。
同古賀義秀は、昭和一九年一〇月広島西部第二部隊に現役入隊し、満洲牡丹江第二四九部隊に転属し、終戦時には陸軍一等兵であり、同二四年九月二四日ナホトカから舞鶴へ上陸して、帰国した。
同樋口孫右エ門は、昭和二〇年応召して陸軍電信第五六連隊に入隊し、以後終戦まで同隊に所属して、朝鮮咸興において武装解除を受け、同二三年五月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同大津國光は、召集を受け、昭和一九年渡満して第八四部隊に所属し、同二二年一〇月ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同二階堂綱男は、昭和二〇年八月一〇日召集を受け、満洲孫呉に駐屯した第一二三師団司令部に入隊し、終戦時には陸軍軍曹であり、同三一年ナホトカから舞鶴に上陸して、復員した。
同山本俊雄は、昭和一八年八月二三日西部第七三部隊に応召入隊し、同年九月一五日満洲第九三八部隊に、同二〇年五月関東軍司令部に各転属、同年八月一五日通化において終戦となり、軍司令部と共に新京へ移動して同所で武装解除を受け、同二四年九月一日ナホトカから舞鶴に上陸した。
同松下正一は、衛生兵として現役入隊し、第二陸軍病院に所属し、終戦時には衛生一等兵であり、昭和二三年一二月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同石嵜清一は、昭和一六年一二月新発田の東部第二三部隊(歩兵第一六連隊)に現役入隊した後、独立混成第一五旅団通信隊に所属し、同一八年には第六三師団通信隊に所属し、同二〇年奉天において武装解除を受け、同二三年七月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同伊藤種次は、昭和一八年一月歩兵第一四七連隊に現役入隊し、同年三月満洲に渡り、以後満洲において軍務に服し、同二三年六月ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同池澤兼吉は、昭和一八年一二月応召し、勲第一一九〇三部隊に入隊し、同一九年二月同部隊と共に千島新知島に、同年九月千島得撫島に移動し、終戦を迎え、同島において武装解除を受け、同二二年夏ナホトカから舞鶴に上陸、復員した。
同藤田正光は、昭和二〇年五月召集を受け、満洲第二七三連隊に入隊し、終戦後牡丹江附近で武装解除を受け、同二三年五月初め上陸し、復員した。
同伊藤キクの亡夫伊藤定雄は、昭和二〇年三月応召し、歩兵第二六八連隊に入隊、同年八月下旬孫呉において武装解除を受け、同二二年初めナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。同人は、昭和五四年三月九日死亡し、原告伊藤キクは、故伊藤定雄の妻であり、両名の間には四名の子がある。
同野呂太十郎は、昭和一八年六月召集入営し、昭和二三年六月一七日ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同久保田七郎は、昭和一八年一月現役志願兵として第八国境守備隊第三地区隊に入営し、終戦時には第一一九師団歩兵第二五四連隊に所属する陸軍伍長として満洲興安嶺におり、同年八月一六日ころ興安嶺で武装解除を受けた。同原告は、その後チタ地区のベルーハ収容所に送られ、タングステン鉱山で採鉱作業に従事し、同二二年六月二六日ナホトカから舞鶴に上陸し、復員した。
同上野久は、昭和一六年九月満蒙開拓団員として家族と共に満洲東安省宝清県に入植し、その後帰国した(成立に争いのない甲第九五号証によれば、帰国の日時は昭和二二年一月であると認定できる。)。
同水野正は、昭和一六年九月一日中部第九八部隊に現役入営し、同一八年二月第八〇飛行場大隊に転属、同部隊と共に千島得撫島に転進し、終戦時には陸軍上等兵であったが、同島で武装解除を受け、同二四年一一月一日ナホトカから舞鶴に上陸した。
同斎藤六郎は、満洲黒河省孫呉にあった第四軍司令部臨時軍法会議付に命ぜられ、浜江省ハルピンに駐屯していて終戦を迎え、同二四年九月ナホトカから舞鶴に上陸した。
同菅原慶吉は、昭和一三年三月一日現役兵として満洲浜江省ハルピンにあった鉄道第三連隊第三中隊に入隊し、以後満洲各地での勤務を経て、終戦時にはハルピン駐屯の関東軍水上司令部に所属する陸軍曹長であり、同二四年ナホトカから舞鶴に上陸した。
同後藤清明は、昭和二〇年七月八日満洲奉天市にあった満洲第七〇二五部隊に現地で応召し、終戦当時は陸軍一等兵であり、同二五年帰国した。
同寺内良雄は、昭和一九年一一月現役入隊し、その後陣第二九九三部隊に転属し、終戦時には幹部候補生であり、同二二年九月ナホトカから舞鶴に上陸して帰国した。
二原告らのソ連抑留の事実
<証拠>によれば、原告伊藤キクを除くその余の原告ら及び故伊藤定雄は、終戦後、いずれもソ連軍によって日本軍捕虜として拘束され、貨車によりソ連領内外の各地に移送され、沿海州のハバロフスク、イマン、ウオロシロフ、ナホトカ、ウラジオストク、コムソモリスク、バイカル湖を中心とするブカチャチャ、チタ、ウランウデ、イルクーツク、チェレンホーボ、タイシェト、バルハシ湖近くのカラガンダ、アルアマタ、中央アジアのタシケント、アングレン、ベグワード、ウラル地方のスベルドロフスク、北千島の占守島、樺太中央部のコトン、マオカ、更にはモンゴルのウランバートルに至る各地の収容所に収容されて、日本に帰国するまでの年月をソ連軍の監視の下で強制労働に従事した事実(ただし、原告荒川春香は昭和二五年八月ソ連から中国政府に引き渡され、以後帰国までの期間を戦犯容疑で監獄に収容されて過ごし、同二階堂綱男は昭和二三年八月以後スパイ容疑で取調べを受け、同二四年矯正労働二五年の刑に処せられ、以後帰国までの期間を矯正労働に従事して過ごした。)を認めることができる。
また、<証拠>によれば、原告上野久は、軍人又は軍属ではなかったが、開拓団員として引揚げの途中、日本軍捕虜の一員に加えられ、以後一等兵として取り扱われたこと、原告早川鐡也は、民間人であったが、日本居留民会奉天支部の指示で集結させられ、ソ連軍により日本軍捕虜として扱われて、昭和二二年一月佐世保に復員上陸したことが認められる。
第三ソ連に抑留された日本人捕虜の待遇
右のようにソ連に抑留された日本軍将兵を主とする日本人捕虜が置かれた境遇については、なかば公知の事実といってもよいが、<証拠>によれば、次のとおりであったことが認められる。
ソ連は、日本人捕虜約一〇〇〇名ごとに一作業大隊を編成し、ソ連領内外の各収容所に分散収容し、各種の作業に従事させた。
その作業の内容は、収容所建設、鉄道建設のための森林伐採・製材・搬出、枕木・煉瓦・石材などの製造・運搬・荷役、鉄道敷設に関する諸工事、住宅・兵舎・工場・倉庫・鉄塔・橋梁・ダム・発電所・運河の建設・修理工事、炭坑労働、糧抹・石炭・木材・石材などの鉄道輸送に関する荷役、港湾荷役、旋盤・自動車修理・鍛冶・鉄工などの作業、土工、製塩、農作業など主として戸外労働であったが、日本人捕虜のこれら強制労働生活を堪え難いものとする事情として、次のようなものがあった。
まず、労働時間は一日八時間が原則とされたが、これには作業場への往復時間を含まず、且つ一日当たり一定の量の出来高が強制され(ノルマ制)、出来高が基準に達しないと作業時間が延長されるだけでなく、作業班単位(後には個人単位)で減食が課された。
食事は、一人一日の量として、黒パン三〇〇ないし三五〇グラムのほか、燕麦、高梁、粟、稗、とうもろこし、小麦などの雑穀入りのスープ(カーシャ)が基準であったが、この基準量自体少量であるだけでなく、現実に配付される量はこれを下廻るものであったため、捕虜達の飢餓は深刻で、ソ連兵の監視の目を盗んで、蛙・蛇・オタマジャクシ・野菜・木の芽・樹皮・きのこなどを食する有様であった。とりわけ終戦後昭和二一年夏ころまでの間の食料事情は最悪で、栄養失調による死者は多数にのぼった。
収容所は、多くの場合、捕虜が自ら建設した丸太造りの小屋であり、入浴はなく、衣服の支給も乏しく、木造の上下二段式板張りベッドに毛布にくるまって着のみ着のままで寝る生活であり、不潔さから、南京虫・ノミ・虱が跳梁し、終戦後約一年間は発疹チフスが蔓延して、これによる死者も続出した。
酷寒の地シベリアでは、冬季に気温が零下四、五〇度を超える日も少なくなかったがや零下四〇度又は五〇度を超えない限り、労働が強制された。
栄養不足からくる体力低下、長時間の重労働による疲労困憊、南京虫等による睡眠不足、凍傷や身体傷害のため動作が緩慢であったり足許が覚束ない状態で重量のある丸太・枕木・石炭・煉瓦などの積み降ろし作業をするのは危険極まりなく、作業中事故による死傷者が出たほか、冬季の森林伐採作業においても、回避動作緩慢・転倒・危険察知の遅れなどで伐木の下敷きとなるための死傷者が続出した。
このように、捕虜達は、栄養失調・長時間の重労働・ノルマ強制・減食の懲罰・病気の蔓延・酷寒により、帰国の望みももてないまま、暗黒の日々を送ったのであり、シベリアに後送された日本人捕虜は総数およそ七〇万名、そのうち死者はおよそ六万名以上と推定されているが、幸いにして死を免れた者も、骨折・手足の切断・打僕傷・凍傷・発疹チフス・黄疸・皮膚病・慢性下痢・結核などで心身に大きな痛手を被り、帰国後もその後遺症に悩む者は少なくない。
第四一九四九年ジュネーブ第三条約六六条及び六八条に基づく請求について
原告らは、右のようにソ連によって捕虜として捕えられ、強制労働を課せられた日本人捕虜である原告らにおいては、一九四九年ジュネーブ第三条約(以下「四九年条約」という。)六六条及び六八条に基づき、被告に対し、強制労働に基づく貸方残高の支払並びに労働による負傷又はその他の身体障害に関する補償及び抑留国が取り上げた個人用品、金銭及び有価物で送還の際返還されなかったもの、捕虜が被った損害で抑留国又はその機関の責に帰すべき事由によると認められるものに関する補償を請求する権利を有すると主張するので、原告らに対する四九年条約六六条及び六八条の適用問題について判断する。
一一九二九年ジュネーブ条約と四九年条約
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
第二次大戦時に国際間に存在した交戦法規中、捕虜の待遇に関する条約としては、五二か国が批准した一九二九年のジュネーブ条約(以下「二九年条約」という。)が存在した。ソ連は、同条約を採択した一九二九年の外交会議に参加せず、批准もしなかったし、我が国もこれを批准しなかった(ただし、我が国は、第二次大戦中の昭和一七年(一九四二年)一月に、アメリカ及びイギリス両国政府からの問合せに対し、我が国の権内にある捕虜に対しては同条約の規定を準用することを明らかにした。)が、第二次大戦の戦中戦後を通じて同条約は多くの諸国で適用された。
しかしながら、第二次大戦の戦中戦後に、同条約を改正すべき必要性も多々認識されたため、二九年条約の改正は、一九四六年に開催された各国赤十字予備会議において本格的に検討されることになり、一九四七年の政府専門家会議を経て、赤十字国際委員会は草案を作成し、一九四八年、ストックホルムにおいて開催された第一七回赤十字国際会議に提出され、若干の修正のうえ採択された。
こうした経過を経て、スイスが招集した一九四九年四月二一日から八月一二日までのジュネーブでの外交会議は、四条約、すなわち、「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する一九四九年八月一二日のジュネーブ条約」(第一条約)、「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する一九四九年八月一二日のジュネーブ条約」(第二条約)、「捕虜の待遇に関する一九四九年八月一二日のジュネーブ条約」(第三条約)、「戦時における文民の保護に関する一九四九年八月一二日のジュネーブ条約」(第四条約)を作成し、同年八月一二日、一七か国が署名した。一九八三年二月一日現在における当事国は、一五二か国に達したが、我が国は、昭和二八年(一九五三年)四月二一日に加入通告し、一〇月二一日に加入の効力を生じ、同日、条約二五号として公布し、ソ連も一九五四年一一月一〇日、加入した。
右第三条約が原告ら主張の四九年条約であって、一四三か条から成っている(右ジュネーブ四条約作成のため、一九四六年の各国赤十字予備会議、一九四七年の政府専門家会議及び一九四八年のストックホルムにおける第一七回赤十字国際会議を経て、一九四九年ジュネーブにおいて外交会議が開催され、右四条約が採択されたこと、我が国が昭和二八年一〇月二一日に四九年各条約に加入したこと及びソ連が一九五四年一一月一〇日に四九年条約に加入したことは当事者間に争いがない。)。
二四九年条約六六条及び六八条
右四九年条約の六六条は、
「捕虜たる身分が解放又は送還によって終了したときは、抑留国は、捕虜たる身分が終了した時における捕虜の貸方残高を示す証明書で抑留国の権限のある将校が署名したものを捕虜に交付しなければならない。抑留国は、また、捕虜が属する国に対し、利益保護国を通じ、送還、解放、逃走、死亡その他の事由で捕虜たる身分が終了したすべての捕虜に関するすべての適当な細目及びそれらの捕虜の貸方残高を示す表を送付しなければならない。その表は、一枚ごとに抑留国の権限のある代表者が証明しなければならない。
本条の前記の規定は、紛争当事国間の相互の協定で変更することができる。
捕虜が属する国は、捕虜たる身分が終了した時に抑留国から捕虜に支払うべき貸方残高を当該捕虜に対して決済する責任を負う。」
というものであり、六八条は、
「労働による負傷又はその他の身体障害に関する捕虜の補償の請求は、利益保護国を通じ、捕虜が属する国に対してしなければならない。抑留国は、第五十四条に従って、いかなる場合にも、負傷又は身体障害について、その性質、それが生じた事情及びそれに与えた医療上の又は病院における処置に関する細目を示す証明書を当該捕虜に交付するものとする。この証明書には、抑留国の責任のある将校が署名し、医療の細目は、軍医が証明するものとする。
第十八条に基づいて抑留国が取り上げた個人用品、金銭及び有価物で送還の際返還されなかったもの並びに捕虜が被った損害で抑留国又はその機関の責に帰すべき事由によると認められるものに関する捕虜の補償の請求も、捕虜が属する国に対してしなければならない。但し、前記の個人用品で捕虜が捕虜たる身分にある間その使用を必要とするものについては、抑留国がその費用で現物補償しなければならない。抑留国は、いかなる場合にも、前記の個人用品、金銭又は有価物が捕虜に返還されなかった理由に関する入手可能なすべての情報を示す証明書で責任のある将校が署名したものを捕虜に交付するものとする。この証明書の写一通は、第百二十三条に定める中央捕虜情報局を通じ、捕虜が属する国に送付するものとする。」
というものである(いずれも外務省訳)。
三四九年条約六六条及び六八条のソ連抑留日本人捕虜に対する適用の可否
1 四九年条約二条は、同条約が適用される場合について、
「平時に実施すべき規定の外、この条約は、二以上の締約国の間に生ずるすべての宣言された戦争又はその他の武力紛争の場合について、当該締約国の一が戦争状態を承認するとしないとを問わず、適用する。
この条約は、また、一締約国の領域の一部又は全部が占領されたすべての場合について、その占領が武力抵抗を受けると受けないとを問わず、適用する。
紛争当事国の一がこの条約の締約国でない場合にも、締約国たる諸国は、その相互の関係において、この条約によって拘束されるものとする。更に、それらの諸国は、締約国でない紛争当事国がこの条約の規定を受諾し、且つ、適用するときは、その国との関係においても、この条約によって拘束されるものとする。」と規定し、更に同条約一三九条及び一四〇条は、この条約に対し非締約国が加入できること、加入は、書面でスイス連邦政府に通告され、且つ、その書面が受領された日の後六箇月で効力を生ずることを定め、我が国及びソ連がそれぞれ同条約に加入したことは前叙のとおりであるから、我が国とソ連との間の宣言された戦争又はその他の武力紛争について四九年条約を適用することが可能であることは明らかである。
しかしながら、我が国より遅れて四九年条約に加入したソ連の加入年月日は前叙のとおり一九五四年(昭和二九年)一一月一〇日であるから、原告伊藤キク、同荒川春香及び同二階堂綱男の三名を除くその余の原告らと故伊藤定雄は、四九年条約が日ソ間で効力を生ずる以前に送還によって捕虜たる身分を終了していたものであって、右の者らについて四九年条約六六条及び六八条を適用できるか、すなわち、条約の効力発生前に既に捕虜たる身分を終了していた者についても右各条を適用できるかは問題である。
2 一般に、条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及び別段の意図が他の方法によって確認される場合を除き、遡及的に適用されないものと解されている。この理は、条約法に関するウィーン条約二八条にも「条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及び別段の意図が他の方法によって確認される場合を除くほか、条約の効力が当事国について生ずる日前に行われた行為、同日前に生じた事実又は同日前に消滅した事態に関し、当該当事国を拘束しない。」と規定されて明らかにされているところである。
しかるところ、四九年条約の一四一条は、
「第二条及び第三条に定める状態は、紛争当事国が敵対行為又は占領の開始前又は開始後に行った批准又は加入に対し、直ちに効力を与えるものとする。(以下略)」
と規定し、二条は、この条約の適用範囲につき、宣言された戦争又はその他の武力紛争の場合について、締約国の一が戦争状態を承認すると否とを問わないこと、締約国の領域の一部又は全部が占領されたすべての場合について、その占領が武力抵抗を受けると否とを問わないこと、紛争当事国の一がこの条約の締約国でない場合にも、締約国たる諸国はその相互の関係においてはこの条約によって拘束されることを規定し、第三条は、締約国の一の領域内に生ずる国際的性質を有しない武力紛争の場合にも各紛争当事国は同条約中の一定の規定を適用しなければならないことを定める規定であるから、右一四一条によれば、紛争当事国の批准又は加入の後に生じた戦争又は武力紛争の場合だけでなく、批准又は加入の前に生じた戦争又は武力紛争についても四九年条約が適用されうることは明らかであるとはいえ、捕虜の送還を終了した後に同条約の批准又は加入が行われた場合にも同条約を適用すべきとするものではなく、同条約中に他に右の意味での遡及適用を認める旨の規定はないから、本件の日本人捕虜ソ連抑留に四九年条約が遡及的に適用されるというためには、四九年条約を第二次大戦の結果に遡及して適用するとの意図が他の何らかの方法によって明らかにされなければならない。
3 原告らは、四九年条約の立法過程からみれば同条約を第二次大戦のもたらした結果に適用する意図が明らかであると主張する。
確かに、四九年条約、とりわけ原告らが主張する六六条及び六八条は、第二次大戦中に日本及びソ連を除く多くの諸国間で有効であった二九年条約の二四条二項(抑留国は捕虜の拘束終了に際し捕虜の貸方勘定を支払うべしとする規定)及び二七条四項(抑留国は拘束中労働災害に罹災した捕虜に対して抑留国の法制上同種労働者の労働災害に適用すべき規定の利益を受けしむべしとする規定)の規定を適用したのでは捕虜にとって不都合な結果を生ずる事情があったために、その改正を意図したものであることは後述するとおりであるが、イギリスやフランスに抑留されて強制労働に従事したドイツ人捕虜が既に本国に送還され(<証拠>によれば、イギリス及びフランスは、第二次大戦終了後、一五〇万人近いドイツ人捕虜を労働力として使用したが、イギリスは一九四八年七月に右捕虜の送還を完了した事実が認められる。)、ソ連に抑留された日本人捕虜も多数が帰国していた(<証拠>によれば、ソ連に抑留された捕虜のうち、戦犯とされた一万二〇〇〇名余を除く外は、一九五〇年四月二二日を最後として、帰国している事実が認められる。)一九四九年の時点で、第二次大戦の結果に対して殊更遡及して適用することを目的とするのであれば、前叙の不遡及の原則からしても遡及適用に関する明文の規定を置くのが当然であって、その規定がない以上、四九年条約を締結した各国が遡及適用の意図を有したとはうかがえないし、四九年条約の成立過程に関する証拠によっても、条約の遡及適用が論じられた事実はこれを認めることができない。
原告らは、四九年条約九九条一項が実行当時に効力があった抑留国の法令又は国際法によって禁止されていなかった行為について裁判に付し又は刑罰を科することを禁止していることの反対解釈として、刑罰以外の領域においては同条約を遡及的に適用するとの意図がうかがえる、とも主張するけれども、右規定は近代刑事法の基本原則の一つである罪刑法定主義の原則を念のため明らかにしたにすぎないものと解されるのであって、右のような反対解釈に根拠を与えるものとは解されない。
更に、原告らは、ソ連は四九年条約八五条に対して留保をしたが、これは、同国が第二次大戦後に行った戦争犯罪人の起訴、処罰等における捕虜の取扱いが同条約の遡及適用によって同条に抵触することを懸念したためで、また、ソ連政府の右留保に関する覚書に「刑期満了した捕虜はジュネーブ条約に定められた条件での送還の権利を持つ」とされているのは、刑期満了した捕虜については四九年条約が遡及適用されることを承認したものである、と主張する。
四九年条約八五条は、
「捕虜とされる前に行った行為について抑留国の法令に従って訴追された捕虜は、この条約の利益を引き続き享有する。有罪の判決を受けても、同様である。」との規定であるが、これに対するソ連の留保は、成立に争いのない乙第一〇九号証によれば、
「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、戦争犯罪及び人道に対する罪のため、ニュルンベルグ裁判の原則に従って抑留国の法令に基づいて有罪の判決を受けた捕虜に対し、この条約を適用すべき第八五条に基づく義務を負うものとは考えない。その理由は、それらの犯罪のため有罪の判決を受けた者が当該抑留国において刑の失効を受ける者に適用される条件に服さなければならないと了解されるからである。」
というものであることが認められる。
すなわち、右留保に照らすと、ソ連は戦争犯罪及び人道に対する罪により有罪とされた者に対しては四九年条約に基づく捕虜として取り扱うのではなく当該抑留国における服役囚が受ける取扱いに服するのを相当と考えて右留保をしたことがうかがわれるだけで、ソ連が第二次大戦による日本人捕虜を四九年条約の適用対象と考えていたか否かについては右留保によっては明らかであるとはいえないし、右留保の動機が原告ら主張のようなものであることを認めるに足りる証拠もない。もっとも、四九年条約が日ソ間で発効した時点で日本人捕虜がソ連に抑留されていた場合に、右時点以後右日本人捕虜が四九年条約による保護を受けることができるかについては、前叙一四一条の規定に照らすとこれを肯定することができると解されるが、「条約は、(中略)条約の効力が当事国について生ずる日前に行われた行為、同日前に生じた事実又は同日前に消滅した事態に関し、当該当事国を拘束しない」との前叙不遡及の原則に照らすと、ソ連が既に日本に送還した日本人捕虜について四九年条約が適用されることを回避するために前記留保をしたとは認め難い。
また、ソ連政府の右留保に関する覚書の内容は、ここにいう遡及適用の問題でないことは、以上の判示によって明らかである。
そして、外に四九年条約が第二次大戦のもたらした結果のすべてに適用されるとの意図を認めるに足る証拠はない。
したがって、原告伊藤キク、同荒川春香及び同二階堂綱男の三名を除くその余の原告らと故伊藤定雄について四九年条約六六条及び六八条が適用されることはないといわなければならない。
4 これに対して、原告荒川春香及び同二階堂綱男は、四九年条約が日ソ間で効力を生じた後の昭和三一年に帰国したものであるから、その余の原告らとは事情が異なる。
しかしながら、<証拠>によれば、原告荒川春香は、昭和二五年六月ころ帰国予定者としてハバロフスクに集結していたところ、南京攻略に参加した部隊員として戦犯容疑者とされ、中国政府に引き渡され、以後、中国撫順監獄に収容されて労働を強制されることなく帰国までの日を過ごしたことが認められるし、原告二階堂綱男は、昭和二三年八月までチタ地区の収容所で強制労働に従事させられていたが、同年九月未決拘置所の独房に入れられ、満洲国警察官時代の状況及びスパイ容疑について取調べを受けた後、同二四年二月スパイ容疑のもとに矯正労働二五年の刑を宣告され、以後囚人として囚人ラーゲリに入れられ、労働に従事した事実が認められ、原告荒川春香については四九年条約が日ソ間で効力を生じた後に捕虜としてソ連に抑留されていたものではないし、同二階堂綱男については、ソ連が四九年条約八五条につき留保をして、抑留国の法令に基づいて有罪の判決を受けた捕虜に対して四九年条約を適用していないこと前叙のとおりであるから、右両名に対しても四九年条約六六条及び六八条の適用は否定されるといわなければならない。
四結論
そうすると、四九年条約六六条及び六八条の適用を根拠としては、原告らの請求は理由づけられないというべきである。
第五国際慣習法に基づく請求について
原告らは、遅くとも第二次大戦終結時ころまでには、捕虜の抑留中の労働に対する賃金、抑留中の死傷病・労働災害に対する補償請求権、その他長期抑留・強制労働による損害賠償請求権(慰謝料請求権を含む。)等のうち抑留国によって決済されなかったものについては捕虜所属国がその支払義務を負うという原則(以下「自国民捕虜補償の原則」という。ただし、原告らは、この語を捕虜に支払った金額の最終的負担者が抑留国・所属国のいずれであるかを問わない意味で用いている。)が国際慣習法として成立していたとし、原告らは、ソ連による前記抑留の結果、捕虜所属国である被告に対し、右国際慣習法に基づく請求権を有すると主張する。
そこで、以下において、原告ら主張の国際慣習法が第二次大戦終結時ころないし原告らのソ連抑留時ころまでに成立したといえるかについて判断する。
一「捕虜」と「降伏敵国人員」について
原告らが国際法上「捕虜」の概念に該当するかは、捕虜条約の適用対象が逐次拡大されてきた捕虜法規の変遷のもとでは、問題のあるところである。
この点について、捕虜法規に関する国際法の変遷をみると、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。
捕虜の待遇に関する近代的国際法の生成は一八世紀に始まったが、一八六四年一二か国によって調印されたジュネーブ条約は、一八六七年までにアメリカを除くすべての大国によって批准され、その後のジュネーブ諸条約の基礎をなすものとなり、アメリカも一八八二年に批准し、我が国も明治一九年(一八八六年)に加入した。
一八九九年、ロシア皇帝の提唱のもとにヘーグにおいて開催された第一回万国平和会議においては、捕虜の地位に関し、「陸戦の法規慣例に関する条約」及び付属規則「陸戦の法規慣例規則」が採択され、二四か国が批准し、同会議では前記一八六四年ジュネーブ条約を海戦にも適用を拡大したが、更に、一九〇六年(明治三九年)にはジュネーブにおいて三五か国の参加により一九〇六年ジュネーブ条約(「戦地軍隊に於ける傷者及病者の状態改善に関する条約」)が採択された。同条約の一条は、「軍人及軍隊ニ公務上附属スル其ノ外ノ人員ニシテ負傷シ又ハ疾病ニ罹リタル者ハ其ノ国籍ノ如何ヲ問ハス之ヲ其ノ権内ニ交戦者ニ於テ尊重看護スヘキモノトス(以下略)」と、また二条は「前条ニ依リテ与フル看護ノ外交戦者一方ノ傷者又ハ病者ニシテ他ノ交戦者ノ権内ニ陥リタル者ハ之ヲ俘虜トシ俘虜ニ関スル国際公法ノ一般規則ヲ適用ス(以下略)」と規定し、戦闘活動継続中に戦闘員資格を保持したまま投降した者だけを捕虜とみなし、無条件降伏等により武装解除された者を想定していない。
一九〇七年、ロシアの提案に従って、オランダの主唱により、第二回万国平和会議がヘーグにおいて開催され、第一回万国平和会議の参加国のほかラテンアメリカ諸国を含む四四か国が参加し、一八九九年の条約及び附属規則を補充、精密にしたうえで、これが採択され、二九か国が批准した(以下、これを「ヘーグ陸戦規則」という。)。
我が国は、明治四四年(一九一一年)一一月六日これを批准し、一方、ソ連は戦争間利益保護国を経由して、一九四一年七月一九日ドイツに対し、同年八月一六日我が国に対し、そして、その他の国に対しても、ヘーグ陸戦規則を尊重する旨宣言した。
ヘーグ陸戦規則成立後の一九一四年に勃発した第一次世界大戦(以下、「第一次大戦」という。)は、捕虜の地位についてなお解決すべき問題を提起し、ヘーグ陸戦規則の補充を迫られたので、一九二一年ジュネーブにおいて第一〇回赤十字国際会議が開催され、赤十字国際委員会は一九三三年条約草案を作成し、一九二九年の外交会議において採択され、二九年条約が成立した。この条約に対しては、五二か国が批准したが、ソ連は、外交会議に参加せず、批准もしなかった。我が国も二九年条約を批准しなかったが、前述のとおり、昭和一七年(一九四二年)、我が国の権内にある捕虜に対しては同条約の規定を準用すべきことを明らかにした。
ヘーグ陸戦規則は、その一条ないし三条において、正規軍の将兵以外に民兵及び義勇兵等に対しても捕虜の地位を承認しているけれども、交戦国の一方が無条件降伏後にその将兵が相手国の捕虜となりうることを規定してはいないこと前叙のとおりであるし、二九年条約は、その一条で、同条約の適用対象者について
「一 陸戦ノ法規慣例ニ関スル千九百七年十月十八日ノ海牙条約附属規則第一条、第二条、及第三条ニ掲グル一切ノ者ニシテ敵ニ捕ヘラレタル者
二 交戦当事者ノ軍ニ属シ海戦又ハ空戦中ニ於テ敵ニ捕ヘラレタル一切ノ者(以下略)」
と規定し、伝統的捕虜の概念を維持している。
第二次大戦後、連合国は、日本の無条件降伏により連合国の手中に入った日本軍将兵を「降伏敵国人員」(SUR-RENDERED ENEMY PERSONEL)と呼称し、アメリカ政府は、一九四七年三月一七日付けで、降伏敵国人員も二九年条約に規定された取扱いを受ける資格を有する捕虜とみなすべきであると考える旨を表明したが、赤十字国際委員会も、降伏敵国人員に対しても捕虜としての待遇を与えるべきとの見解を示した。
こうした経過のもとに成立した四九年条約は、その四条において、「この条約において捕虜とは、次の部類に属する者で敵の権力内に陥ったものをいう(以下略)」とし、五条では、「この条約は、第四条に掲げる者に対し、それらの者が敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ、送還される時までの間、適用する。(以下略)」と規定した。
以上のとおり認められる。
右に認定したところによれば、捕虜の取扱いに関する国際法規は、その適用対象である捕虜の概念を時の経過とともに拡張してきたが、第二次大戦当時に日本とソ連との間で適用される捕虜の取扱いに関する条約はヘーグ陸戦規則であったもので(同条約には総加入条項が存在するところ、第二次大戦の当事国には同条約に加入していない国が存在したので、厳密にいうと問題がある。)、それによる場合、日本の無条件降伏及び軍の武装解除後にソ連軍によって拘束され、抑留された原告ら日本人将兵が捕虜の概念に該当するとはいい難いところである。
しかしながら、以下において問題となるのは、国際慣習法の成立とその適用であるから、無条件降伏及び武装解除後にソ連に拘束され抑留された日本人将兵である原告らについてその主張の「自国民捕虜補償の原則」による請求権が成立するかは、専ら国際慣習法の成否及びその内容の問題であるといわなければならない。
二自国民捕虜補償に関する国際法の変遷
捕虜の抑留中の労働に対する賃金、死傷病・労働災害に対する補償、その他長期抑留・強制労働による損害賠償等の支払を抑留国と捕虜所属国のいずれが負担するかについては、後記三でふれるとおり、第二次大戦後の諸国において多くの国家実行がみられるところであるが、それに先立ち、これらの問題についての実定国際法の変遷を概観してみると、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
1 ヘーグ陸戦規則は、捕虜に支払われるべき労働賃金について、六条三項、五項及び一七条で次のとおり定めていた。
「国家ノ為ニスル労務ニ付イテハ、同一労働ニ使役スル内国陸軍軍人ニ適用スル現行定率ニ依リ支払ヲ為スヘシ。右定率ナキトキハ、其ノ労務ニ対スル割合ヲ以テ支払フヘシ。」(六条三項)
「俘虜ノ労銀ハ、其ノ境遇ノ艱苦ヲ軽減スルノ用ニ供シ、剰余ハ、解放ノ時給養ノ費用ヲ控除シテ之ヲ俘虜ニ交付スヘシ。」(同条五項)
「俘虜将校ハ、其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給ヲ受クヘシ。右俸給ハ、其ノ本国政府ヨリ償還セラルヘシ。」(一七条)
2 一九一四年に勃発した第一次大戦は、世界最初の全体戦争であったが、戦争中ヘーグ陸戦規則の捕虜に関する諸規則が必ずしも明瞭でないことが明らかとなった。
例えば、抑留中の労働により捕虜が災害を受け、若しくは職業病にかかった場合に、いかなる種類の補償を、いつ、誰から、いかにして受け取るかについては、ヘーグ陸戦規則は何ら規定していなかった。
このため、交戦国は、いくつかの暫定協定を締結した。
まず、一九一七年、コペンハーゲンで取り決められた多数国間捕虜協定は、この点について、抑留国が自国民に対するのと同様の責任を負うとするロシア提案を採用した。
これに対し、イギリスとドイツは、翌一九一八年七月一四日、両国の間で「戦闘員捕虜及び文民に関する英独政府間協定」を締結し、その三二条四項において、労働事故に関する手続につき、前記コペンハーゲン協定とは異なり、「労働ニ従事セル捕虜ニ事故アリタルトキ抑留国官憲ハ該事故ノ性質ヲ述ヘタル証明ヲ其ノ者ヲ解放スルトキニ交付スヘキコト」と規定し、両国には、このような場合における抑留国の義務として、当該捕虜解放時に事故証明書を交付すればよいとした。
また、アメリカとドイツは、同年一一月一一日、「捕虜、衛生要員及び文民に関する米独協定」を締結し、捕虜は抑留国のための労働に対し報酬を受けること、捕虜の勘定に貸記された額の純残高は中立国における抑留開始又は復員時にこれを当該捕虜に支払うべきこと(五一条)、抑留国の捕虜に対する支払はすべて最終的には捕虜所属国が抑留国に償還すべきこと(一三二条)を定めた(一九一七年に抑留中の労働により生じた捕虜の傷害について抑留国が自国民に対するのと同様の責任を負うと定めるコペンハーゲン協定が採択されたこと及び一九一八年にイギリスとドイツとの間で前記内容の協定が締結されたことは当事者間に争いがない。)。
3(一) ところで、二九年条約二七条四項は、次のとおり規定し、捕虜が抑留中に被った労働災害について、抑留国のその補償に責任がある旨を定めた(この事実は当事者間に争いがない。)。
「交戦者ハ拘束期間ヲ通ジ労働災害ノ罹災者タル俘虜ヲシテ捕獲国ノ法制上同一種類ノ労働者ニ適用セラルベキ規定ノ利益ヲ受ケシムル義務アルモノトス。右捕獲国ノ法制上ノ理由ニ依リ右ノ如キ規定ノ適用ヲ受クルコト能ハザル俘虜ニ関シテハ、該国ハ罹災者ニ対シ衡平ニ賠償スルニ適スル一切ノ措置ヲ執ルベキコトヲ其ノ立法府ニ建議スル義務アルモノトス。」
右条項に規定された内容は、前述したコペンハーゲン協定と同趣旨であったが、同条項の適用については当時からある種の困難を伴うであろうことが指摘されていた。
例えば、二九年条約二七条四項に定める責任の期間について、この責任は捕虜の解放とともに消滅するものか否か、請求権を有する者若しくは当該請求者から権利の譲渡を受けた者に対し、同条項は一括支払を否定する趣旨かなどの問合せが赤十字国際委員会に寄せられた。
なかでも、北アフリカ仏軍主計大将は、収容所内で発生した事故や個人が雇用したときに生じた事故の場合において、送還された軍人は、捕虜所属国において支払われてきた軍人傷病年金を受ける資格はなくなるのか否か、抑留国の国民の仕事に従事している間に生じた不具・廃疾の場合は、両国の間の相互清算協定により決済されないケースであるか否か、もし、不具・廃疾者が捕虜所属国に帰還しなかった場合、捕虜所属国は不具・廃疾年金を支払うことになるのか、もし、そうでない場合、彼は、元の雇用主若しくは抑留国に対し、請求する資格を有するのかとの質問を寄せた。
これらの問合せに対し、赤十字国際委員会は、これまで、ある国は、相互主義を条件に、抑留国の責任は捕虜の解放及び送還によって消滅するものではない、との解釈をとり、また、ある国は、抑留国の責任は捕虜の解放及び送還によって消滅する、との解釈をとってきたことを明らかにした(二九年条約二七条四項の適用について当時からある種の困難を伴うであろうことが指摘されていたこと、同条項に定める責任の期間について前記内容の問合せが赤十字国際委員会に寄せられたこと及びこれらの問合せに対して赤十字国際委員会はこれまで二種類の解釈がなされてきたことを明らかにしたことは当事者間に争いがない。)。
(二) また、二九年条約は、俘虜を給養する義務が俘虜捕獲国にあること(四条一項)、俘虜の個人用衣類及び物品は俘虜が保有すべきこと(六条一項)、俘虜の所持する金銭は将校の命により且つ金額を検証した後でなければ取り上げてはならず、取り上げた金額については受取証を交付し、各俘虜の勘定に記入すべきこと(同条二項)、貴重品を俘虜から取り上げてはならないこと(同条三項)、被服・下着及び靴は捕獲国が俘虜に支給すべきこと(一二条一項)、俘虜たる将校及びこれに準ずる者は所属国から受ける権利を有する俸給の範囲内で捕獲国軍の相当階級の将校と同一の俸給を抑留国から受けるが、俸給として俘虜になされた一切の支払は戦争終了後俘虜の所属国から捕獲国に返済されるべきこと(二三条一項及び三項)、俘虜が所持を許される現金の最高限度は交戦国間で協議されるべく、これに基づき俘虜が取り上げられ又は留保された超過額は、俘虜の勘定に記入され、俘虜の貸方勘定は拘束終了時に俘虜に支払われるべきこと(二四条一項ないし三項)、捕獲国は、将校及びこれに準ずる者を除き、健康な俘虜を労働者として使役することができるが、労働災害の罹災者たる俘虜に捕獲国の法制上同一種類の労働者に適用される規定の利益を拘束期間中受けさせる義務を負うこと(二七条一項、四項)、収容所の管理・整頓・保存に関する労働以外の労働に使役される俘虜には交戦者間に協定されるべき労銀を受ける権利があり、協定が締結されるまでは捕獲国の軍人が同一労働に従事する場合の現行定率等に従い支払われるべきこと(三四条二項、四項)、拘束終了の際俘虜の貸方残額は俘虜に交付すべきこと(同条五項)、俘虜は捕獲国軍の現行法律、規則及び命令に服従しなければならず、不従順の行為があるときは俘虜に対し右法律等の規定する手段を施すことができるが、一切の体刑、日光により照明されない場所における監禁、一切の残酷な罰は禁止され、個人の行為について団体的な罰を課すことはできないこと(四六条三項、四項)などを規定し、捕虜の貸方残高は抑留国が支払うべきことを定めたが、第二次大戦終了後、大多数の国が外貨の輸出入に関し厳格な態度をとったため、実際上これらの義務の遵守は極めて困難となった。
4 こうした事情を考慮して、四九年条約は、抑留国はすべての捕虜に対し毎月俸給を前払いしなければならず、前払額が抑留国の軍隊の俸給に比べて不当に高額である場合等には捕虜に支払うべき額を捕虜の勘定に貸記して前払俸給中捕虜の使用に供する額を制限することができること(六〇条一項、三項)、抑留国は捕虜を無償で給養しなければならないこと(一五条)、抑留国は一定の条件のもとに捕虜を労働者として使用することができるが(四九条一項)、抑留当局は捕虜に対し公正な労働賃金を支払わなければならないこと(六二条一項)、抑留国は、各捕虜について、捕虜に支払うべき額、捕虜が俸給の前払若しくは労働賃金として得た額等も示す勘定を設けなければならないこと(六四条)のほか、前記第四の二で摘示した六六条及び六八条の規定を定め、捕虜に支払うべき貸方残高支払並びに労働による負傷又はその他の身体障害に関する捕虜の補償、抑留国が取り上げた個人用品、金銭及び有価物で送還の際返還されなかったもの、捕虜が被った損害で抑留国又はその機関の責に帰すべき事由によると認められるものに関する捕虜の補償をいずれも捕虜所属国がなすべきものと定め、且つ、これらについての最終的負担国については、六七条において、抑留国によってなされる俸給の前払は捕虜所属国に代わってなされるものと規定したうえ、俸給の前払、捕虜が同条約六三条三項に基づき抑留国により利益保護国を通じて所属国に支払通告書の送付を受け、抑留国が捕虜所属国の勘定に貸記したもの、並びに六八条に基づいて当該国がしたすべての支払は、敵対行為の終了の際、関係国の間の取決めの対象としなければならないと定めている。
5 このように、捕虜の取扱いに関する実体国際法規の変遷は、
(一) 俸給の前払については、ヘーグ陸戦規則においては将校についてのみ認められ、二九年条約においてはこれを将校に準ずる者に拡大し、四九年条約ではすべての捕虜にまで拡大したが、その最終的負担者が捕虜所属国であることには変更がなく、
(二) 労働賃金及び捕虜の給養については、ヘーグ陸戦規則においては、労働賃金からは捕虜の給養費を控除し、残額を解放の時捕虜に交付するとしていたが、二九年条約においては、俘虜捕獲国に俘虜給養義務を負わせ、労働賃金は俘虜に交付した現金を除く貸方勘定残額を捕獲国は拘束終了時に交付するものとし、四九年条約は、抑留国は捕虜を無償で給養しなければならないものとし、労働賃金は捕虜の貸方勘定に、捕虜の要請によって支払われた金額は借方勘定にそれぞれ記載され、捕虜の身分が終了したときは、抑留国は捕虜の貸方残高を示す証明書を捕虜に交付し、捕虜所属国はその貸方残高決済責任を負うものとされ、
(三) 労働災害に関する補償については、ヘーグ陸戦規則には定めがなく、一九一七年の多数国間捕虜協定では抑留国の負担とし、一九一八年の英独協定では抑留国の事故証明書発行義務のみを定め、二九年条約は、抑留国の補償責任を認め、四九年条約は、抑留国の事故証明書発行義務と捕虜の所属国に対する補償請求とを認め、補償費の最終的負担は関係国間の取決めに委ね、
(四) 捕虜が所持した金品及び貴重品については、二九年条約では、貴重品は捕虜が所持するものとされ、取り上げた金銭は俘虜の勘定に記入され、俘虜の貸方勘定は拘束終了時に支払われることになっていたが、四九年条約では、抑留国が取り上げた個人用品、金銭及び有価物で送還の際返還されなかったものの補償は捕虜所属国に請求し、所属国がした支払は敵対行為終了の際関係国の間の取決めの対象となるとされ、
(五) 捕虜が被った損害で抑留国又はその機関の責に帰すべき事由によると認められるものに関する補償は、四九年条約において、はじめて抑留国が取り上げた金銭や有価物と同一の処理方法が定められ、
ヘーグ陸戦規則以後、第一次及び第二次大戦を経て、捕虜の有効な保護と良好な待遇をもたらすべき変革を遂げている。
三各国の自国民捕虜に対する補償の具体例
四九年条約に規定される捕虜所属国の補償義務に関する国家実行として、各国が、自国民捕虜に対し、いかなる補償措置を講じてきたかを、各国の国内法令及び実施例から考察する。
<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
1 アメリカ
(一) 一九四三年及びその後の第二次大戦の間、対敵通商法上の権限に基づき、アメリカが管理する敵国資産をアメリカ人の戦争損害を補償するために使用することを目的とする法案が議会に上程され、一九四五年一一月二〇日、ジェームス・エフ・バーンズ国務長官は、「我が国内の日本、ドイツ両国の資産は、戦争請求権に関連する目的のために、我が国によって使用されるべきである。」と述べた。
(二) 一九四八年七月三日、第八〇連邦会議において、戦争請求権法が制定され、その後いくたびかの法改正により、適用範囲が拡大されているが、同法によれば、一九四一年一二月七日以降アメリカと戦争状態にあった国に捕虜として抑留されたアメリカ陸海軍の構成員であって、正規に任命された者、召集兵、志願兵及び軍属であった者を抑留している敵国の政府が、二九年条約の規定により捕虜に保障されている量と質の食料を捕虜に与える義務に違反した場合及び二九年条約第三編第三款(捕虜の労働に関する規定)に基づく義務に違反した場合に、戦争請求権委員会が捕虜に補償を行う(二〇〇五条)が、捕虜であった者からの請求に対する支払は、国庫に設置された信託基金である戦争請求権基金からなされ、同基金は、ドイツ、日本又はその国民の財産でアメリカ政府の国庫に払い込まれた全額から構成されることとなっている(二〇一一条、二〇一二条)。
もっとも、アメリカ政府は、サンフランシスコ講和会議において、対日平和条約一六条に基づく捕虜補償のための基金からの分配を受ける権利を放棄することを明らかにした(アメリカが前記内容の戦争請求権法を制定したことは当事者間に争いがない。)。
(三) なお、戦争請求権法は、更に、朝鮮戦争、ベトナム戦争において捕虜となった者についても適用されたが、同戦争では没収された敵国資産がなかったため、戦争請求基金は用いられず、その目的のための国庫支出によるアメリカ国内の基金によって補償がなされた(朝鮮戦争の際の戦争請求権法の運用において、戦争請求基金が用いられなかったことは当事者間に争いがない。)。
2 フランス
(一) 一八三一年四月一一日の法律及び同年四月一八日の法律は、当時まで文民の公務員の年金と同じ規定に服させられていた軍人年金について別個の軍人年金制度を創設した。一八三一年四月一八日の法律は、年功年金と並んで傷病年金につき規定するものであったが、傷病年金は年功年金の繰り上げ支給といったもので、すなわち、契約によって国家と結びつく職業軍人は、その勤続年数に応じて退役年金を支給されるが、傷病のため勤務不能となり、退役年金の受領に必要とされる所定の年数に達しない場合にも、この退役年金の支給を受けるというものである。
(二) 一九一九年三月三一日の法律は、一九一四年八月二日に遡及して適用されるものであったが、年功年金と傷病年金との間の関連を断ち切り、傷病のみについての規定を設けた。そして、一九一九年六月二四日の法律は、戦争の民間犠牲者に対する補償を確立することで当該法制を補完した。
(三) 第二次大戦後、多くの法文が公布されたが、これらの総合的法典化が一九五一年四月二四日の四件の政令によって実現され、更に、一九五三年八月一三日の四件の政令へと引き継がれた。
(四) 現在、四種類の補償が捕虜に対して与えられている。すなわち、第二次大戦中捕虜として抑留された者に対する抑留補償、六か月以上捕虜となっていたことのある者が六〇歳になったときから支給される戦闘員年金、六か月以上の捕虜経験のある者に対する抑留の期間に応じた年金の繰り上げ支給及び対日平和条約一六条に基づく捕虜補償である。
(1) 抑留補償
一九五三年一二月三一日の法律第一三四〇号四三条及び一九五五年四月三日の同法修正法第三五六号七条は、フランス傷病軍人戦争犠牲者年金法典三三四条に入れられたが、同条は、第二次世界大戦の捕虜及びその相続人に対し、捕虜生活一か月につき四フランの一時金を支給する旨規定した。この一時金は、三分の一が現金で、残額は一九五四年一月一日から起算して二年後及び四年後に同額ずつ支払われる債券の交付により支給される。
(2) 戦闘員退役年金
一九三九年九月二日以後に実施された作戦に関して、敵軍が占領した領域において戦争捕虜として六か月間抑留された陸海空軍の軍人等について、六〇歳から戦闘員退役年金が支給される。
(3) 年金繰上げ支給
一九七三年一一月二一日の法律第七三―一〇五一号は、戦闘員手帳の所持資格者たる元戦闘員及び第二次大戦の捕虜に対して、戦時における兵役又は捕虜生活の期間に応じて六〇歳から六五歳の間に老齢退役年金を繰り上げて全額支給することを認めた。
右法律によれば、受益者がそれぞれ六四歳以上の場合には六か月以上の、六三歳以上の場合には一八か月以上の、六二歳以上の場合には三〇か月以上の、六一歳以上の場合には四二か月以上の、六〇歳以上の場合には五四か月以上の捕虜生活又は戦時の兵役をしたことを要求している。
(4) 対日平和条約一六条による補償
(a) 一九六〇年二月四日の決定により、対日平和条約一六条によって規定された賠償に基づきフランスに対し供与される資金は、次のとおりの方法によって、第二次大戦の過程において日本軍の捕虜となったフランス軍成員の間で分配されることとなった。すなわち、捕虜生活中に死亡した者の相続人、捕虜生活中の虐待の結果八〇パーセント以上の障害を被った者、その外の者に対し、それぞれ2対1.5対1の比率で分配するとの方法であった。一九六〇年六月二七日の決定により、分配率1の者は230.67フラン、分配率1.5の者は346フラン、分配率2の者は461.34フランを受領することになり、また、一九六七年一一月二七日の決定により、更に分配率一の者は五〇フラン、分配率1.5の者は75フラン、分配率二の者は一〇〇フランを追加受領することとされた。
(b) なお、西ドイツとの間の賠償に関しては、一九六〇年七月一五日に、両国間で協定が結ばれた。
3 カナダ
(一) 一九四六年、カナダ政府は、第二次世界大戦において日本の捕虜となった者全員に対し、年金を付与することを決定した。
(二) 一九七一年、カナダ政府は、日本の捕虜となった者に対し特別の補償を行うべきである、との世論を受けて、「カナダ軍及びカナダ陸海空軍年金法」を制定し、第二次大戦中一年以上日本の捕虜であった者で労働能力を喪失した者に対して五〇パーセントの労働能力喪失者に与えられる年金と同額の年金を付与する旨規定した(五五条)。
(三) 一九七六年五月五日、カナダ政府は、日本以外の国の捕虜となったカナダ人に対して補償の範囲を拡大した元捕虜補償法を制定した。同法は、日本に三か月以上一年未満の期間抑留された者に対し二〇パーセントの、一年以上の期間抑留された者に対し五〇パーセントの、また、日本以外の国によって三か月以上一八か月未満の間抑留された者に対し一〇パーセントの、一八か月以上三〇か月未満の期間抑留された者に対し一五パーセントの、三〇か月以上の期間抑留された者に対し二〇パーセントの補償を行うこととしている(三条、五条)。
4 西ドイツ
西ドイツは、第二次大戦において捕虜となったドイツ人の援護及び補償に関し、一九五〇年六月一三日に「戦争捕虜の家族のための生活扶助に関する法」を、一九五〇年六月一九日に西ドイツ帰還兵援護措置法を、一九五四年一月三〇日に元ドイツ人戦争捕虜補償法をそれぞれ公布した。
これらの法律に基づきドイツ人捕虜になされた主要な金銭的補償は、以下のとおりである。
(一) 釈放金
軍隊又は準軍隊への所属のために戦争捕虜となり、一九四五年五月八日以後に釈放され、外国抑留からの釈放後二か月以内に連邦領域又はベルリン州に居所を置いたドイツ人又は現にこれを置くドイツ人であって、一九五一年一〇月三〇日以後に連邦領域又はベルリン州に居所を置いた者又は現にこれを置く者に対しては、二〇〇マルクが釈放金として交付される(西ドイツ帰還兵援護措置法二条、一条一項)。
(二) 臨時扶助金
右釈放金の受給資格者に対し、臨時扶助として三〇〇マルク相当の衣服、日用品が交付され、帰還兵の申請により現金の交付も認められる(同法三条)。
(三) 抑留補償
一九四六年一二月三一日を過ぎて外国における抑留から釈放された者などに対し、一九四七年一月一日以降一か月の補償として三〇マルクが支給される。この金額は、一万二〇〇〇マルクを限度とし、抑留が一九四九年一月一日以降の各月につき六〇マルク、爾後二年間を超えるたびに各月二〇マルクずつ加算されて支給される。
なお、この補償をもって、権利者が外国抑留中の自由剥奪及び強制労働を理由として連邦共和国に対して有する請求権は消滅する(元ドイツ人戦争捕虜補償法三条一項)。
(四) 元捕虜援護基金による補償
元ドイツ人戦争捕虜補償法は、一九六九年七月二二日に改正されたが、同改正により捕虜及び死亡した捕虜の未亡人に対し、元捕虜援護基金から裁量的に補償を行うことが認められた。
(1) 一時扶助金
困窮状態に対する一時金として八〇〇〇マルクを限度として支給される。必要に応じ繰り返し支給される。
(2) 住宅貸付
三万マルクを限度として、年間五パーセントずつの分割返済、無利息にて貸付が認められる。
(3) 経済的基盤の確立と安定のための貸付
四万マルクを限度とし、貸付日から三年間返済据え置き、爾後一〇年以内に返済、年利三パーセントにての貸付が認められる。
(4) 奨励して然るべきと思料される職業ないし社会的目的を有する計画に対する貸付
二万マルクを限度として貸付が認められる。返済条件は(3)と同様。
(5) 軍務及び捕虜であったために生じた法的年金保険に係る様々な不利益に対する調整金
月額三〇ないし六〇マルク(一九八一年以降五〇ないし八〇マルクに増額)が該当者の収入に応じて支給される。
5 オーストリア
(一) 一九五七年、オーストリア戦争犠牲者援護法が規定され、オーストリア共和国及び旧オーストリア・ハンガリー帝国又はその同盟国のために、若しくは一九三八年三月一三日以降旧ドイツ国防軍の兵士として軍隊に勤務したため及び入隊以前の教練のために、健康障害を被った者及びその遺族は援護受給の資格を付与されたが、戦争捕虜の家族も遺族とみなされ、同様に受給資格を認められた(一条)。
(二) 一九五八年六月二五日には「後期帰還兵についての経済援護に関するオーストリア連邦法」が制定され、第二次世界大戦において捕虜となった者等は、一時的な援護給付として、最高二年分を限度に、一九四九年五月一日以降外国で抑留されていたことの明らかな暦月ごとに三〇〇シリングの金銭を支給されることとなった(一条、二条)。
6 イギリス
イギリス政府は、第二次世界大戦が終結した当時のドイツ捕虜収容所において、下士官及び兵の捕虜が受け取ることができたとされる労働賃金の一〇パーセント相当額が一般的に捕虜によって引き出されていたと判断した。これらの捕虜は、帰還後、抑留されていた期間にイギリスへ送金したとされる金額を控除し、同人ら自身が受け取ることができたとされる労働賃金総額の九〇パーセントを各自の軍機関に請求する権利を有した。また、日本から帰還したイギリス人捕虜は、捕虜の労働賃金全額の支払を受けた。
四イギリス、フランス及びアメリカの第二次大戦におけるドイツ人捕虜に対する貸方残高の支払
第二次大戦中、連合国とドイツとの間で、二九年条約における捕虜解放時に抑留国が捕虜の貸方勘定残高を捕虜に支払うとの規定とは異なる協定を締結した事実が存在する。
すなわち、<証拠>によれば、以下の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
1 イギリス
(一) イギリスは、二九年条約二四条二項の抑留国による捕虜の貸方残高の支払が実際上困難であることに鑑み、同条約八三条に規定された特別協定によりこの問題を解決することとし、一九四一年、ドイツと特別協定を締結した。同協定二四条は、「ドイツ政府は、帰還する捕虜及び被保護人員の全ての貸方残高につき、捕獲時に所持していたものを除き、抑留国がこれを支払う代わりに捕虜所属国に通知をなし、政府間の決済は、一般的な戦後処理において考慮されることに同意した。」と規定する。
(二) このように、英独協定は、両国のそれぞれが他方の国家によって解放された捕虜の貸方残高を支払うべきことを定めたが、第二次大戦が終結したとき、イギリスによって釈放されたドイツ人捕虜に対し、貸方残高支払の責任を負うべき捕虜所属国たるドイツは崩壊し、ドイツ公権力は存在しなかった。
当初、イギリスは、右英独協定を厳格に履行することが望ましいと考えていたが、赤十字国際委員会が捕虜のためにとった行動を考慮して、これらの捕虜に貸方残高を遅滞なく支払うことができるよう別個の政策をとった。
すなわち、当時外貨の輸出入に関し制定された法令は、イギリス領内の捕虜収容所においてイギリスがドイツ人捕虜に対し貸方残高をマルクで支払うことを禁止する一方、右収容所において貸方残高をイギリスポンドでドイツ人捕虜に支払ったとしても、右金員をドイツ本土に持ち込むことは禁止されていたため、イギリスにとって自国の法令に反することなく、且つドイツ人捕虜にとってドイツの法令による制約を受けることなく、貸方残高をドイツ人捕虜に対して支払うことができるとすれば、その方策は、ドイツ人捕虜に対し、ドイツ領土内でマルクで貸方残高を支払うということであった。そこで、イギリスは、ドイツ人捕虜の貸方残高の支払につき、ドイツ領土内のイギリス占領地域にある釈放キャンプを離れる際に、一ポンド当たり一五マルクの交換率で支払った。
2 フランス
フランスもイギリスと同様に、ドイツ人捕虜の貸方残高をドイツにおいて、マルクで支払った。
3 アメリカ
アメリカは、ドイツ国立銀行との間で、一九四六年一二月三一日、貸方残高の支払に関する取決めを結び、同銀行の支店網を通じて、ドイツ人捕虜に対し、同人らが交付を受けたアメリカドル表示の貸方残高整理表記載の額に相当するマルクを支払った。
五日本の第二次大戦における日本人捕虜に対する貸方残高の支払
以上に判示した諸外国の例のほか、我が国もまた、第二次大戦における日本人捕虜に対し、抑留中の貸方残高を支払った事実がある。
1 <証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 連合国軍総司令部は、日本政府に対し、昭和二一年三月一〇日、「オーストラリア、ニュージーランド及びその他の地域からの帰還者に対し発行される通貨受領書」と題する覚書を発した。右覚書には、オーストラリア、ニュージーランド及びアメリカの管轄区域外の東南アジア地域から帰還する日本人民間人及び捕虜を含む軍人が乗船時に所持金全額及び彼らの受け取るべき貸方残高に対する受領書を受け取っていること、日本政府が右帰還者に対し将校については最高五〇〇〇円、民間人については一〇〇〇円を限度に支払をなしうること及び捕虜については、右限度額を超えて捕虜であった期間中に支払われるべき金額を更に支払いうることを内容とするものであった。
(二) 日本政府は、右覚書を受け、昭和二一年三月三一日、オーストラリア、ニュージーランド及び東南アジア地区(北米合衆国の管轄地区を除く。)から日本へ帰還する日本人(一般人、陸海軍軍人、軍属及びこれらの者で第二次大戦中に捕虜であった者を含む。)が携帯輸入する連合国が発行した右地区の通貨で表示した現金預り証により日本銀行の本店、支店又は上陸地所在の代理店において一般人(軍属を含む。)は一〇〇〇円相当額以内、軍人のうち将校は五〇〇円相当以内、下士官は二〇〇円相当以内の支払を受けるとき又は日本銀行の本店、支店若しくは代理店がその支払をなすときには外国為替管理法施行規則又は昭和二〇年大蔵省令第八八号の規定による制限及び報告を免除すること、ただし、捕虜であった期間中の収入金についてはその額を超えて支払を受け又は支払をすることができることを大蔵省告示第一七八号をもって告示した(日本政府が昭和二一年三月一〇日付け総司令部覚書を受けて同月三一日大蔵省告示第一七八号を公布したことは当事者間に争いがない。)。
(三) また、日本政府は、昭和二一年三月二八日付け総司令部覚書を受け、同年四月一九日、アメリカ及びアメリカ領から帰還した日本人(捕虜を含む。)についても右と同様の支払を受け得ることを告示(大蔵省告示第二九七号)した(日本政府が昭和二一年四月一九日大蔵省告示第二九七号を公布したことは当事者間に争いがない。)。
(四) 具体例
(1) 日本政府は、グアム島に収容されていた捕虜約七〇人が必要な書類を持たず帰還したが、持帰り金の支払を受けるため、総司令部に持帰り金についての指示を申し入れていたが、総司令部は、日本政府に対し、昭和二一年六月一三日付け覚書で、同人らに支払われるべき米ドルに相当する日本円を支払うよう各自に対する支払金額を指示してきた。
(2) 日本政府(中央連絡局)は、総司令部に対し、同月二七日、帰還した日本人捕虜の多くが抑留中得た収入金の代わりにアメリカ国当局発行の書類を所持しているが、その書類には、アメリカないし日本の通貨の合計金額が表示されておらず、支払ができないため、添付された日常作業記録に記載された点数の計算基礎並びに熟練労働及び未熟練労働に対する毎日の支払金額を明らかにするよう要請したところ、総司令部は、日本政府に対し、昭和二二年二月一二日付け覚書をもって、捕虜各自につき支払総額を明らかにすべく準備中である旨回答した。
(3)(a) 総司令部は、日本政府に対し、昭和二二年六月二七日付け覚書をもって、イギリス国連絡使節団覚書を伝達したが、右使節団覚書の内容は次のとおりであった。「イギリス政府は、日本人捕虜及び負傷・疾病者に関する協定によって保護された人員の本国帰還の際に支払われるべきであったかもしれない貸方残高の処理の問題を考慮してきた。イギリス政府は、日本政府に対し、これらの人々のような場合には、イギリス政府は、捕虜たちのその拘束期間に生じたであろう貸方残高の請求の解決に関して、戦争中を通じて従ってきた方策に依拠するであろうということを通告したいと願う。すなわち、本国帰還に際し、このような貸方残高の金額は抑留国によって支払われるのではなく、その後いかなる戦後清算においても関係政府間の調整を考慮に入れつつ、関係個人との清算に責任を有することになるであろう捕虜であった者の本国政府に対し、通告されるべきであるということである。」
(b) 日本政府は、総司令部に対し、昭和二三年五月四日付け覚書をもって、五1(一)で掲げた昭和二一年三月一〇日付け総司令部覚書によれば、イギリスが日本人降伏者に対し発行した個人計算カードの支払は引揚邦人持帰り金の制度内で認められているが、イギリス占領下で作業に従事し、個人計算カードを所持する日本人は、極めて厳しい労働に従事したこと、また、インフレのため最近物価が高騰したことの二つの理由により、個人計算カード記載全額を支払うことが望まれるとして、その許可を申請するとともに、許可が得られたならば、日本政府は、本件支払が最終的にはイギリスにおいて負担されることを希望する旨申し入れた。
(c) 右申し入れに対し、総司令部は、日本政府に対し、同年五月二四日、捕虜に対しその抑留中同人らに支払われるべき金額を追加して支払うことができることを除いては、持帰り金の制限内においての支払が認められること及び日本政府が支払った金額は、日英政府間の戦後決済の一部を構成するものであって、決済時点において、イギリス政府は、日本軍に捕えられたイギリス人捕虜に対して支払われるべき金額について反対請求権を持つものである、と回答した。
(4) シンガポールにおいてイギリスによって捕虜となった石川利一は、イギリスから貸方残高の証明書の交付を受けた。
(5) また、ビルマにおいて捕虜となった松田重雄は、昭和二五年二月六日、日本銀行松山支店において個人計算カードに基づく支払を受けた。
(五) なお、日本政府は、連合国の捕虜となった日本軍兵員が労役に服したことにより交付を受けた労賃カード等で未払の分につき、当初、臨時軍事費特別会計関係の在外債務として扱い、右特別会計終結に際し、未処理債務として一般会計に承継した。
ちなみに、昭和二一年度には、引揚民対策諸費(厚生省所管)のなかに引揚者持帰通貨交換費として八億円、また、日本銀行政府債務返償費(大蔵省所管)として一二億円の予算が計上された。
2 以上の事実を総合すれば、日本政府は、総司令部の指示を受けて、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域及びアメリカから帰還した日本人捕虜に対し、抑留国が交付した現金預り証等に基づき、持帰り金の制限なしに、捕虜であった期間中の労働賃金を交付したことが推認できる。
六自国民捕虜補償の原則の国際慣習法性
1 国際慣習法の成立要件
国際慣習法とは、法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習(一九四五年国際司法裁判所規程三八条)であるが、一般にその成立要件として一般慣行と法的確信とが挙げられる。
(一) 一般慣行
一般慣行とは、特定の国家実行の集積により一般性をもつに至った事実的慣行をいう。
一般慣行と認められるためには、国家実行が反覆され、不断且つ均一の慣行となっていることが要求される。国際司法裁判所が判決で示したところによれば、国家実行及び公式に表明された見解に不確実と矛盾、動揺と不一致がみられる場合には、その不断・均一性を欠くものとして国際慣習法の成立が阻害されるとみなければならない(一九五〇年庇護事件)。しかし、ある国の国家実行に若干の不確実又は矛盾がみられても、長い期間におけるさまざまな事実及び事態を考慮すれば容易に説明ができ、大部分の国家実行が反復され大筋で優越し、諸外国が一般的黙認をしてきた場合には、一般慣行の要件を充足するものと解してよい(一九五一年漁業事件)。
一般慣行といえるために、どの程度の範囲の国がその国家実行に従っていることが必要であるかが問題となるが、抽象的には、当該事項に重要な利害関係を有する国の多数の同調を必要とすると解される。
一般慣行としての不断・均一な国家実行が一定の期間にわたり反復されることを要するかも問題であるが、国際司法裁判所が判決で示したところによれば、相当の期間の経過がない場合であっても、当該事項について特別の利害関係を有する国を含む国家実行が広汎且つ一様なものとなっていればよい(一九六九年北海大陸棚事件)とされる。
(二) 法的確信
法的確信とは、国家が、国際法上義務的なものとして要求されていると認識して、特定の行為を行うことをいう。
この点については、国際慣習法の成立要件としては、むしろ一般慣行の存在を重視すべきであって、特に諸国の均一の行動を排除する旨の意思表示があったとの立証がなされない限り、一般慣行の存在をもって法的確信の証拠とみることができるとの見解もある。たしかに、法的確信という主観的・心理的要因の存在を具体的な事案において立証することは容易ではなく、結局関係諸国の現実の行動から間接的に推論していくほかはないとしても、この法的確信によって裏付けられない慣行は、単に事実としての慣行又は慣習であって、未だ慣習法とはいえないといわなければならない。
前記大陸棚事件において、国際司法裁判所も、「単に関係行動が定着した慣行にならなければならないだけでなく、この慣行は、それを要求する法の規則の存在によって拘束的なものとされているという信念を証明するようなものでなければならず、またはそのような信念を証明するような仕方で実行されなければならないのである。そのような信念の必要、すなわち、主観的要素の存在は、法あるいは必要信念の観念そのものの中に蓄積されている。ゆえに、関係国は、法的義務になっていることに従っているのだという意識をもたなければならない。行動の頻度また習慣性さえも、それ自体として十分なものではない。たとえば、儀式・儀典の領域には、ほとんど不変的に行われながら、法的義務の意識ではなく、単に儀礼・便宜又は伝統の考慮によって動機づけられるにすぎない多くの国際行為がある。」と判示しているのである。
なお、法的確信のなかには、国家が法的義務としてではなく、一定の行為が国際法上許容されているもの(許容的な規定)と認識して、国家が行動する場合も含まれる(一九二七年ローチュス号事件、国際司法裁判所判決参照。)
2 自国民捕虜補償の原則を内容とする国際慣習法の成否
(一) 一般慣行について
(1) 国際慣習法の成立要件である一般慣行の認定根拠となる国家実行としては、外交書簡、政策声明、法制意見、新聞発表、判決、国内法令、行政機関の決定・措置、条約その他の国際文書の受諾、条約草案に対する回答などが挙げられるが、国連その他の国際機関の決議のうち少なくとも現行国際法を確認した内容のものについては、採択に際しての賛成国の数、採択後の国家実行による履行と実現など、他の諸要因をも総合して、一般慣行の認定根拠となる。
本件で問題の自国民捕虜補償の原則に関しては、四九年条約成立に至るまでの間の諸国家における自国民捕虜補償の実例が右にいう国家実行に当たることはいうまでもない。
(2) 自国民捕虜補償の原則に関する国家慣習法の成立要件の一つである一般慣行の認定根拠としての国家実行については、前記三ないし五で認定したところであるが、これを要約すると、以下のとおりである。
(a) 第二次大戦の交戦国中、アメリカ、フランス、カナダ、西ドイツ、オーストリアは、第二次世界大戦終結後、自国民捕虜に対し、各種の補償を規定した国内法令を制定した。
とりわけ、アメリカの戦争請求権法は、自国民を抑留した敵国政府が二九年条約に基づく義務に違反した場合に当該捕虜に補償を行う旨定め、且つ、その基金として敵国であったドイツ、日本又はその国民の財産を予定していたが、アメリカ政府は、後に対日平和条約一六条に基づく捕虜補償のための基金から分配を受ける権利を放棄するに至った。
また西ドイツの元ドイツ人戦争捕虜補償法は、自国民捕虜に対する抑留補償を規定するところ、同法は明文をもって「この補償をもって、権利者が外国抑留中の自由剥奪及び強制労働を理由として連邦共和国に対して有する請求権は消滅する。」と定めた。
(b) イギリスは、日本に抑留された自国民捕虜に対し、労働賃金を支払い、一方、日本政府自身も、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域及びアメリカに抑留された自国民捕虜に対し、特別の予算措置を講じたうえ、貸方残高の支払を行った。
(c) 捕虜の抑留中の貸方残高の支払及び捕虜が被った労働災害等に対する補償を捕虜所属国の責任とする四九年条約六六条、六八条は、ジュネーブ外交会議本会議において全会一致で採択され、また、同条約の批准又は加入において、右規定を留保している国はない(この点については後にふれる。)。
(3) これに対して、自国民捕虜補償の原則の一般慣行性に合致しない次のような国家実行も存在する。
(a) <証拠>によれば、大蔵省は、連合国軍総司令部に対し、昭和二二年六月五日、フィリピンのルソン島に捕虜として抑留されていた六三人の日本人につき、アメリカが発行した日常作業記録に添付された書類によるとその労働賃金を受け取っていないようだとして、その調査を要請したが、これに対し、総司令部は、同年九月一三日、同人らは身分証明書を持参のうえ、総司令部第二四〇財政支払課において支払をうけることができる旨回答したこと、日本政府は、この回答に接し、同年一〇月二日、受領者らの多くが東京から遠距離の地に居住していることを配慮し、ディスバージング・オフィサーが右合計金額を一括して日本政府に支払い、日本政府が日本銀行を通じて受領者各人に支払うことができるよう代替的方法を総司令部に要請したことが認められ、原本の存在及び成立に争いのない乙第一〇一号証中の「ディリー・ウォーク・レコードは現地軍において俘虜所得計算の基本とするものであって、俘虜がこれを携帯すべきものではない。右レコードによる所得は既に現地において支払済のものである。」との記載及び原本の存在及び成立に争いのない甲第一一三号証中の「米軍管下においては旧階級及び技術の種類に応じて一定の賃銀が支払われている。」との記載をも総合すると、日常作業記録記載の捕虜収入金が抑留国において日本人捕虜に支払われた例があることが認められる。
(b) 四九年条約の六六条及び六八条が最終的に採択されるまでの経過においては、自国民捕虜補償とは異なる原則を主張する意見があり、右両条の原案も抑留国補償方式を定めるものであった。
すなわち、<証拠>によれば、次の事実が認められる。
一九四七年に開催された政府専門家会議において、赤十字国際委員会は、二九年条約二七条四項は労働災害の影響が捕虜の帰還後に及ぶ場合に適用できないため、同項について、
「使役され、その労働から生じた災害又は病気の罹災者たる捕虜に対しては、その健康状態が要求するあらゆる手当てを施さなければならない。更に当該捕虜に対しては、帰還後にかかる権利の承認を得ることができるように、診断書を発給しなければならない。この診断書の写しは、赤十字国際委員会を通じて捕虜の本国政府に送達しなければならない。」との改正案を提出し、自国軍の構成員に対して補償を行う捕虜所属国の責任を規定した条項を提案した。赤十字国際委員会は、また、労働災害のために労働能力を喪失した捕虜に対しては、健康回復又は帰還まで俸給の半額を与え続けなければならないとの提案をした。これに対し、ある代表は、本条約が捕虜とその捕虜所属国との間の関係についてふれるものではない、との理由で反対した。また、仮に抑留国が捕虜に一定限度の現金の所持を認めなければならないとの原則が認められるならば、労働災害を被った捕虜に対し、その俸給の半額を与えなければならないとの規定は不要であるとの意見もあった。
四九年条約六六条の原案である五六条は、一九四八年の第一七回赤十字国際会議で採択されたが、その原案では、
「捕虜の死亡の際には、捕虜の勘定の貸方残高を証明する書類を当該捕虜の属する国に送付しなければならない。
捕虜が敵対行為の行われている間に送還されたときも同様とする。当該書類すべての写しは、送還される捕虜に対しても交付しなければならない。
敵対行為の終了後、解放又は送還された捕虜の勘定の貸方残高の決済に関し、関係当事国間に特別協定のないときは、抑留国は、関係者に対し、当該残高を現金で支払わなければならない。」
と規定し、捕虜解放の際の貸方残高支払いについては、抑留国と捕虜所属国との間に特別の協定がない場合、抑留国が責任を負うとの前提であった。
また、一九四九年の外交会議の席上、貸方の一部は抑留国が捕虜に支払うべき労働賃金に由来するとの理由から抑留国と捕虜所属国とが貸方勘定の衡平な支払に対して共同して責任を負うとする案も提出された。
四九年条約を検討するための一九四九年五月二日の会議においては、六六条を含め本質的な意見の不一致があった条文を検討するために、特別委員会が設けられることになったが、同特別委員会は、若干の特に困難な問題点及び技術的問題点を作業団又は専門家グループで議論すべきであると考え、捕虜の金銭問題を規定する条文(五八条ないし六八条)は、会計専門家委員会に付託されて検討されることになり、同委員会は一〇回の会合を行ったという経緯もあった。
もっとも、右の経過を経て、同年八月一二日、一七か国の代表は四九年条約に署名し、その後一九五八年末までに七四か国が同条約を批准又は加入し、一九七二年五月末における同条約の当事国は一三〇か国に達したが、それらの国の中で、六八条については留保を付する国はなく、六六条について当初イタリアが留保を付したが、後に留保を撤回した。
(二) 法的確信について
(1) 法的確信の存在は、関係諸国の国家実行から推論されることは前叙のとおりである。
ところで、捕虜の待遇に関する実定国際法の変遷は、さきにみたとおりであるが、ヘーグ陸戦規則における労働賃金抑留国負担の原則、二九年条約における抑留国の貸方残高支払義務及び抑留中の労働災害に対する抑留国の補償義務の原則、更に四九年条約における抑留国の無償給養義務、労働賃金支払義務と捕虜所属国の貸方残高支払義務及び労働災害に対する補償義務の相互関係を検討するに、二九年条約八九条は、一九〇七年陸戦条約の締約国で、且つ、二九年条約の加盟国間の関係では、二九年条約はヘーグ陸戦条約の付属規則(ヘーグ陸戦規則)第二章(俘虜に関する章)を「補足スベシ」と規定し、また、四九年条約は、一三四条で四九年条約が締約国間の関係においては二九年条約に代わるものとし、一三五条でヘーグ陸戦条約によって拘束されている国で、且つ、四九年条約の締約国であるものの間の関係においては、四九年条約がヘーグ陸戦条約に付属する規則の第二章を「補完する」と規定する。
これは、さきに認定したヘーグ陸戦条約が、その前文で、ヘーグ陸戦条約の条規に明文化されていない場合でも、「文明国の慣習」、「人道の法則及び公共良心の要求から生ずる国際法の原則」には後日より完備した戦争放棄が制定されるまでの間は拘束される、と確認されたところの「文明国の慣習」「人道の法則及び国際法の原則」の一応の具体化として結実したものが四九年条約であると理解すべきことを意味する。すなわち、一連の捕虜条約は、捕虜の待遇改善のたゆまぬ努力の一つの結実として完成したものであり、いずれもその目的においては同一であるといえる。
このような意味で、「四九年条約における修正は、部分的、技術的なものであり、最終的責任の負担者を抑留国とするか捕虜所属国とするかの問題はさておき、捕虜の貸方残高の支払及び抑留中の労働災害に対する補償がなされなければならないという信念は四九年条約以前との間に変革はなく、抑留国によって決済されなかった貸方残高の支払及び労働災害の補償は捕虜所属国によってなされなければならないとの信念が第二次大戦に関する諸国の国家実行に顕現された」との原告らの主張には、傾聴すべきものがあるといえる。
(2) しかしながら、国際慣習法の成立要件としての法的確信は、前叙のとおり、関係国が、国際法上ある行為をすることを義務として要求されていると意識して、右義務に従うとの観念のもとに一定の国家実行を実現する場合に認められるものであるところ、前認定の、欧米諸国における捕虜となった自国軍人に対する年金や傷病軍人に対する傷病年金の支給例は、それ自体自国民の福祉増進に役立つものであるから、各国が自国固有の内政問題として実行することが当然に予想されるところであって、二九年条約における抑留中の労働災害に対する抑留国の補償義務の原則との関係を各国がどのように理解し、捕虜所属国の傷病年金と抑留国の補償義務をどのように使い分けてきたかについてはこれを認めるに足りる資料がないけれども、捕虜となった自国軍人に対する年金や傷病年金の支給が国際法上の義務であるとの観念のもとに実行されたと認めるべき証拠はなく、この点は、第二次大戦における欧米諸国の自国民捕虜に対する各種の補償についても同様であるといわなければならない。
そして、貸方残高証明書、個人計算カード、労賃カード、現金預り証等を所持して帰国した日本人将兵に対して日本政府がした前叙の支払についても、日本政府が連合軍総司令部に対し、支払は最終的にはイギリスにおいて負担されることを希望する旨を表明した前叙の事実に照らすと、日本政府が右支払について国際法上の義務であるとの観念のもとに実行したと認めることは困難であって、日本政府は抑留国の支払義務を抑留国のために代行するとの観念を有していたことが窺われるところである。
(三) 結論
(1) 原告らが主張する自国民捕虜補償の原則に関する国際慣習法の成否についてみると、一般慣行の存在の要件については、アメリカ、フランス、カナダ、西ドイツ、オーストリア、イギリスの諸国において前叙の実行例があり、それらの実行時期は四九年条約成立前のものもあれば成立後のものもあって、成立後のものについては、原告らが四九年条約の六六条及び六八条を国際慣習法の法典化、すなわち、既存の国際慣習法の確認又は宣言と主張するところから、本件における原告ら主張の原則に関する一般慣行の一部とするには問題があるところであるが、この点は措くとしても、同じく第二次大戦の関係諸国でも、ソ連、中国、オランダ等について、同様の国家実行が存在したかはこれを知りうる証拠がないし、我が国についても、前述の抑留国補償の代行としての認識のもとに行った支払例のほかには、交戦国の捕虜となった日本人将兵に対する貸方残高の支払、労働災害等に対する補償を一般的に行ったことはないのであって、第二次大戦の関係諸国の間で一般慣行が存在したとするには疑問が残る。
更に、法的確信については、前述のとおり、自国民に対して補償をした各国が自国の内政問題として補償をしたのかそれとも国際法上の義務として補償をしたのかについて、これを知ることはできないところである。
したがって、四九年条約六六条及び六八条の内容と同旨の国際慣習法が、原告ら主張の第二次大戦終結時ころまでは勿論のこと、第二次大戦終結後四九年条約成立までの間に、すなわち原告らのシベリア抑留当時に、成立したと認めることはできないといわなければならない。
(2) 原告らは、その主張の自国民捕虜補償の原則、すなわち捕虜の所属国は捕虜たる身分終了時の抑留国における貸方残高を捕虜に対して支払う義務を負い、且つ、捕虜の労働災害によって生じた損害は所属国が補償義務を負うとの内容の国際慣習法は、日本国憲法九八条二項により国内法としての効力を有する結果、被告に対し、右国際慣習法に基づき本件補償請求権を取得したと主張する。
これは、国際法の自動執行力の問題であるが、自動執行力の概念は、各国の裁判所又は行政機関が私人の法律関係を決定するに際して国内法による編入・具体化といった格別の措置をとらなくても直接にその認定の根拠として適用できるとの意味で、あるいは、当該国際法規の内容が十分明確且つ詳密であるためその内容を各国の執行機関が個別に判断するまでもなく直接に国内で適用できるとの意味で用いられており、今日多くの国の憲法において、国際慣習法は、国内法への変型など格別の措置をとらなくても、自動的且つ包括的に国内法の一部となり、国内法上直接適用が可能なことが定められているとされ、日本国憲法九八条二項が「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と規定しているのも、右の意味での国際慣習法の国内的効力を認めたものと解されるところである。
ところで、国際法は、本来、国家間の法律関係を規律する法であるから、国際法に基づく権利義務の主体となるのは原則として国家であり、個人が国際法によって個人的な利益を保護される場合にも、その保護の目的を達成するための手段としては、国の他国に対する外交保護権の行使によるのが一般的である。
これに対して、国際法が国内的効力をもつ場合には、個人がその属する国との間で直接の法律関係に立ち、その国の国家機関による適用又は執行を受けることができることになるが、国際慣習法が国内で自動執行力を持つためには、国際法の成立法規である条約がこれを批准し又は加入した国家間においてのみ効力をもつのと異なり、国際慣習法は国際社会におけるすべての国を拘束するうえ、国際慣習法が成立するに至るまでには時の経過を必要とすることが多く、その内容も成文国際法規に比して明確さを欠くことは性質上当然であるから、国際慣習法の存在とその内容とが格段に明確でなければならないのであり、とりわけ、国際慣習法が個人に個別的に具体化された請求権を付与するというのであれば、法規範の内容として権利の発生要件と効果が明確且つ詳密でなければならない。
本件のような捕虜に対する補償課題については、既に第二次大戦前から、軍人に対する年金、傷病年金、災害補償等の制度を国内法上有した国が少なくないので、原告ら主張の自国民捕虜補償の原則が国際慣習法として成立するためには、補償の対象者、補償の内容、方法、期間などについての法規範の内容が明確且つ詳密でなければならないし、それらと既存の国内法による補償との関係如何、殊に国際慣習法と国内法との間に牴触が生ずる場合にどのように処理すべきかとなると、困難な問題である。
それゆえ、諸外国においても、国際慣習法の国内的効力については、実際上自動執行力を無条件で認めてはいないことが知られるのであって、詳細に論ずることは避けるが、<証拠>によれば、イギリスの裁判所は、編入理論に従い国際慣習法の国内的効力を認めてきたが、次第に国内法令との適合性に関する条件を強め、変型理論、すなわち国際法の国内的実現のためにはその内容が制定法として変型されることを要するとの理論を採用し、事前の受理又は採用がある場合に限って国際慣習法の国内的効力を認めるに至っているし、アメリカでも、国際慣習法の国内的な実現と効力は、少なくとも個人の権利義務に関する限り、国内法による変型と具体化を条件としているといえるのであり、フランスでは、国際慣習法として十分に確立していても、個人の権利義務を直接に設定するほどに発展し精密な内容になっているものはごく稀であって、一般には個人が当事者として国内裁判所で援用できるものではないとされ、西ドイツにおいても、国際法規が個人の権利義務を設定したものであるか否かについて疑いが生じた場合には、通常裁判所は連邦憲法裁判所に送致し、自動執行性の有無についての判断を仰がなければならないとし(西ドイツ基本法一〇〇条二項)、東ドイツ憲法も、国際慣習法の国内的効力を認定する際の国家の裁量権を広く留保していることが認められ、国際慣習法の国内法秩序への編入を原則とする国も、少なくとも個人の権利義務に関する国際慣習法については、その実際の適用に種々の条件を付し、国内法との適合を図っているのである。
しかして、本件で問題の自国民捕虜補償の原則の国際慣習法化については、前叙の諸国のそれぞれの国家実行によって、どのような要件が充足された場合にどのような具体的権利が発生するといえるのかについて、前叙のような権利根拠規定としての法規範の内容を認識することは、各国の補償の対象、方法及び内容が国情に応じて様々である関係上、不可能であるといわなければならず、この意味においても、原告ら主張の国際慣習法の成立を認めることはできないというほかはない。
七結論
以上の次第で、原告らの国際慣習法に基づく請求は、その余を判断するまでもなく、理由がないといわなければならない。
第六憲法に基づく損失補償請求について
一憲法二九条三項に基づく損失補償請求
原告らは、ソ連に対し、国際法に基づき捕虜としての固有の俸給、労働賃金の請求権並びにソ連の抑留、強制労働により生じた損害賠償請求権及びソ連国内法に基づくソ連の抑留、強制労働による損害賠償請求権ないし不当利得返還請求権を有していたところ、これら対ソ請求権は日ソ共同宣言六項二文によって放棄されたが、被告による右放棄は原告らのみが被った特別の犠牲に当たるとして、憲法二九条三項に基づき補償請求権を有すると主張するので、この点について判断する。
まず、国際法は、国家と他の国家との関係を規律する法であるから、一般に個人が国際法上の法主体性を有するものでなく、国際法が個人の生命・身体・財産などの個人的利益を保護しようとする場合にも、国家に対し個人の権利・利益を侵害してはならないとの義務を課し、その義務に対する違反行為に対しては当該個人の属する国の外交保護権を行使する方法によって間接的に救済を図ることを予定するに過ぎず、個人がその属する国以外の国家に対して権利侵害に対する被害回復を求めようとしても、これを直接実現するための法制度が存在しないので、その目的を達するための有効な手段を個人は有していない。
捕虜の人道的取扱いを目的とするいわゆる捕虜法規は、直接的には捕虜個人の権利・利益を保護することを目的とし、間接的には捕虜の所属国の利益を保護することを目的としているが、捕虜の捕獲国又は抑留国に対し捕虜の取扱いについて各種の義務を課してはいても、その実現のための手段としては、保護国の仲介・関与、中立国に設置される俘虜情報中央局又は中央捕虜情報局の情報蒐集・伝達(以上、ヘーグ陸戦規則及び四九年条約)などを定めるにとどまり、国際法上捕虜たる個人が捕獲国又は抑留国に対し捕虜法規の遵守を強制できる有効な手段は定立されていないのが実情である。
このように、個人が国際法上享受すべき権利ないし利益は、その所属する国家の外交保護権の行使によらない限り、その実現を強制し得ないものであるから、その権利ないし利益を享受するためには、他国の任意の履行がある場合を除けば、当該個人の所属国との間の関係において国内的に解決される問題とならざるを得ず、もともと原告らシベリア被抑留者に対して原告ら主張の権利ないし利益を原告らに享受させることなく、日本本土に送還し、これを享受させる意思をもたないソ連に対し、被告が日ソ共同宣言によって対ソ請求権を放棄したとしても、これにより原告らがソ連から得られるべき権利ないし利益の実現を失うことにはならないものというべきである。
次に、原告らが、ソ連法上、ソ連に対し、長期抑留、強制労働、私物没収等に基づく損害賠償請求権を有するかであるが、<証拠>によれば、ソ連法上、国の賠償責任は民法によってのみ認められているところ、国家機関たる営造物(軍隊はこれに該当する。)の加害行為中行政的なもの(行政権の行使はこれに該当する。)には特別規定が適用され、それによると、「営造物は、その職員の違法な行為に基づき生じた損害に対し、それが法により特に規定された場合であって、かつ職員の行為の違法性が所轄裁判機関または行政機関により認定されたときに限り、責に任ずる。被害者が適時に違法な行為について苦情を申立てないときには、営造物はその責からまぬがれる。営造物は、被害者に支払った損害賠償額につき、職員に求償する権利を有する。」(ロシア共和国民法典第四〇七条)
「被害者が、法律の規定または裁判判決(刑事・民事)、決定による要求の実行として、またはこれらもしくは営造物の内部管理規定にもとづき職員のなした処置にもとずく要求の実行として、営造物またはその職員に対しその財物(特に金銭)を交付した場合、職員がその権限内でなした職権行為ならびに職務遂行上の怠慢行為につき、それが裁判または行政機関により違法、不法または犯罪構成的と認められたときは、営造物はその責に任ずる。営造物は、上述の要件に従い、被害者の利益のために財産(とくに金銭)が交付された場合にも、またその責に任ずる。」(同法第四〇七条のa)
とされていることが認められるのであって、ソ連が国の政策として実行したことの明らかな日本人将兵に対するシベリア長期抑留及び強制労働が右各条の適用の対象となるとは解せられないし、ソ連軍人による私物没収ないし不返還行為については、被害者が適時に違法な行為について苦情を申し立て、行為の違法性が所轄裁判機関若しくは行政機関により認定されたこと又は行為が裁判若しくは行政機関により違法、不法若しくは犯罪構成的と認められたこととの要件を充たすことが不可能と考えられるので、原告らがその主張の如きソ連法上の損害賠償請求権を有したと認めることはできず、ソ連が国の政策として実行した長期抑留及び強制労働によって原告らに対しソ連法上不当利得返還義務を負うことについてはこれを認めるに足りる証拠がないから、原告ら主張のソ連法上の請求権喪失を理由とする請求は、その余について判断するまでもなく、理由がない。
原告らは、以上とは趣旨を異にする理由づけとして、被告は、ソ連に対する賠償に代えて、原告らを含む邦人を荒廃したソ連の国力回復のため強制労働に服させ、日ソ共同宣言に当たり、ソ連との平和回復及びソ連の賠償請求を放棄させるという公共目的のために原告らの対ソ請求権を放棄し、もって原告らに損失を被らせたので、憲法二九条三項による補償を求めるとも主張する。
しかしながら、被告が日本人将兵を荒廃したソ連の国力回復のため強制労働に服せしめた事実の存否はともかくとして、抑留及び強制労働が開始された時期は日本国憲法制定前であるから、右事実が存在したと仮定しても憲法二九条三項による損失補償請求権は成立しないし、日ソ共同宣言による対ソ請求権の放棄によって原告らの労働を公共の目的のために用いたとの点については、右放棄によって原告らが何らの損失を被ったものでないこと前叙のとおりであるから、原告らの右主張も、理由がない。
以上のとおり、憲法二九条三項を根拠とする損失補償請求は、理由がない。
二憲法に基づく国家補償請求
原告らは、国の行為を契機として個人が被った特別の損害については国が補償すべきであるとし、被告は、原告ら日本軍将兵に対して国際法上認められている捕虜の権利につき教育しないまま第二次大戦を開始し、ポツダム宣言を受諾するに当たり万全で緻密な外交努力をして日本人将兵の速やかな帰還を確保すべきであるのに、ソ連が戦時賠償の名目で日本人将兵を後送し強制労働を課する意図を有することを予見しながら、抑留回避措置を講じないまま、ポツダム宣言を受諾し、日ソ停戦協定においても抑留回避条項を盛り込まず、もってシベリア抑留と強制労働を実現させ、抑留開始後は、早期帰還のための施策を懈怠し、また原告ら捕虜に対して物資の送付をせず、原告らに通常の戦争損害とは全く異なる奴隷的拘束及び苦役を強いさせたのであり、原告らの苦役を代償としてソ連は日本に対する戦時賠償を放棄したのであるから、原告らは、憲法一一条、一三条、一四条、一七条、一八条、二七条、四〇条等に表現される被害救済の基本原理に基づき、被告に対し国家補償請求権を有する、と主張する。
そこで、検討するに、公務員の不法行為に基づく国や公共団体の損害賠償責任を定める憲法一七条も、無罪の裁判を受けた被拘束者に対する国の補償責任を定める憲法四〇条も、具体的な権利の発生要件及び内容は法律で定めることとしており、右両条は、実体法規ではなく、憲法一一条は基本的人権についての一般原理、同一三条は個人は尊重されるべきとの原理、同一四条は人間平等の原則、同一八条は人身の自由に対する保障を宣言し、これらは国政の指導理念の宣明であるとともに、右各法条に反する立法及び行政機関や私人の行為の効力を否定する作用を有するものであるが、いずれも国に対する関係で損害又は損失の補償請求の根拠となる実体法規ではない。
これに対して、財産権を保障するとともにこれを公共のために用いた場合の補償義務を規定する憲法二九条は、財産権に対する立法又は行政上の制限が補償規定を伴わない場合に補償請求権の実体法規の作用を有することが近時承認されるに至っており、原告らのソ連抑留及び強制労働により被った損害は、人身の奴隷的拘束及び苦役という非財産上の損害であると同時に、その間の労働力の喪失という決済的損失を伴うものであるから、私物没収又は不返還による損害とあわせて、憲法二九条三項による補償の対象となりうるものといえる。
ところで、原告らの被った損害ないし損失は、我が国によって始められた日中戦争及び太平洋戦争に対するソ連の参戦に端を発するものであって、前掲甲第一二一号証によれば、ソ連は、ヨーロッパにおける枢軸国との戦争による人的物的な消耗で疲弊した国力の復興に資するため、我が国が旧満州に有した官民の在外資産と労働力、技術力をソ連領土内で役立てることを企て、昭和二〇年二月に行われたヤルタ会談におけるアメリカの参戦要請に応える形で第二次大戦の終末期に急遽旧満州に進攻したこと、同年七月二六日アメリカ、イギリス、中国の三国が日本に対して発したポツダム宣言九項では
「日本国軍隊は、完全に武装を解除せれらたる後、各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」
と定められていたにもかかわらず、同年八月一五日の我が国のポツダム宣言受諾による無条件降伏後、ソ連軍は我が国との間の何らの協定に基づかずに武装解除された日本人将兵を再編成して短時日のうちにソ連領内に後送したことが認められるから、原告らの長期抑留と強制労働によって被った損害ないし損失は、第二次大戦によってもたらされた戦争損害の一部に外ならないということができる。
そして、国家にとって、他国との戦争は、国の存亡にかかわる非常事態であるから、戦中及び戦後において、国民のすべては、好むと好まざるとにかかわらず、多かれ少なかれ、その生命・身体・財産上の犠牲を耐え忍ぶことを余儀なくされるのであるが、これらの犠牲は、戦争損害として国民の等しく受忍しなければならないものであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところといわなければならない(最高裁判所昭和四三年一一月二七日大法廷判決・民集二二巻一二号二八〇八ページ)。
第二次大戦は、参加当事国の数が多いこと、戦火の及んだ地域が広いこと、兵器の進歩と大量殺りく手段の使用、国を挙げての戦争態勢、国土の戦場化などによって、多くの国の国民に多大の惨禍をもたらし、我が国においてもあらゆる種類の戦争損害を国民の各層に生ぜしめることとなったが、原告らソ連長期被抑留者の被った損害も、さきに認定したとおり多大なものがあり、帰国後の社会復帰が意の如くにならなかったこととあわせて、これを通常の戦争損害とは異なるとする原告らの主張には、理解できる点もないではないが、諸外国の例にみるように、立法のみによって解決されるべき問題であるといわなければならない。
したがって、原告らの憲法二九条三項を損失補償の基本規範としての憲法に基づく国家補償請求権の主張も採用できない。
第七国家賠償法一条又は不法行為に基づく損害賠償請求について
原告らは、被告において、原告らをソ連に引き渡し、ソ連による長期抑留、強制労働を放置したのみならず、日ソ共同宣言六項二文によって原告らの対ソ請求権を放棄し、現在に至るまでその補償措置を講じない、という作為、不作為による違法な公権力の行使があり、右のいずれもが被告又はその公務員の故意又は過失によるものであるから、被告に対し、国家賠償法一条又は不法行為に基づき損害賠償請求権を有すると主張するので、この点について判断する。
まず、我が国が日本人将兵をソ連に引き渡したかについて、<証拠>によれば、史書によると、、昭和二〇年六月、我が国は戦況不利に鑑みソ連に連合国との和平交渉斡旋を申し入れることを考慮し、同年七月一二日、特使として元首相公爵近衛文麿をモスクワに派遣することにしたこと、近衛公爵は側近の者らとソ連に提案すべき和平交渉の要綱を作成したが、その中には「海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」「賠償として、一部の労力を提供することは同意す」「若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、若年次兵は一時労務に服せしむること、等を含むものとす」などの項が含まれた(矢部貞治編著「終戦史録下巻」)とされていることが認められるけれども、右にいう賠償労働提供の対象国にソ連は含まれないものであるし、前掲甲第一二一号証によれば、近衛特使の派遣をソ連に申し入れたところ、ソ連首相スターリンは米英ソの三国会議に出席のためポツダムに赴いていたうえ、我が国の特使派遣の具体的意図が不明であるとして態度は煮え切らず、一方スターリン首相はポツダム会談において対日開戦の方針を固めたため、結局特使派遣は実現せず、右和平交渉の要綱も提示されずに終った事実が認められるので、前叙の事実によっては国が日本人将兵をソ連に引き渡したとの原告らの主張は裏づけられないし、他に原告らの右主張を認めるに足りる証拠はない。
原告らは、ソ連において日本人将兵を戦時賠償の名目でソ連領に移送し強制労働を課す意図を有していることを被告は予見しながら、ソ連がこれを実現するのを容認したとも主張するが、我が国がこれを容認した事実を認めうる証拠はないのみならず、<証拠>によれば、第二次大戦においては、連合国側においても兵員の損耗が激しく、国内労働力が不足したため、ソ連は日本人将兵の抑留に先立って敗戦国ドイツの将兵を遠くシベリアに移送して強制労働を課し、イギリス及びフランスもまたドイツ将兵に強制労働を課した事実が認められ、さきに触れたソ連の対日開戦の目的からしても、我が国が容認すると否とを問わず、ソ連軍に降伏する日本人将兵がソ連領内に移送されて強制労働を課されることは、必然の運命であったというべきである。
原告らの主張のうち、日ソ共同宣言における対ソ請求権放棄の点については、既に判示したところであるから、ここでは繰り返さない。
原告らは、我が国がソ連による長期抑留及び強制労働を放置したと主張する。
我が国の無条件降伏により、我が国の国家主権は講和条約発効の日まで制限され、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため必要と認める措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれることになったのは、公知の事実である。連合国は、間接統治の方策を執ったから、我が国は、憲法を制定し、国会において法律を制定し施行することができたが、講和条約発効前においては外交の権能をもたず、国家主権を対外的に発動する手段を持たなかった。したがって、我が国の政府がソ連による日本人将兵の長期抑留及び強制労働を解消しようと欲しても、これを実現するために有効な手段は存在しなかった。もっとも、政府は、何らの努力をもしなかったというのではなく、<証拠>によれば、政府は、昭和二〇年九月一三日、ソ連からの日本人抑留者の引揚げに関して総司令部に対して援助を申し入れ、総司令部はアメリカ政府にソ連との交渉を要請した結果、アメリカにより対日理事会での日本人送還の働きかけや米ソ交渉がなされることとなり、ソ連は、昭和二一年九月、翌月以降シベリア、樺太から日本人を送還すると発表し、同年一一月二六日には米ソ間に引揚げに関する暫定協定が、同年一二月一九日には同じく米ソ間に日本人捕虜を毎月五万名送還するとの協定が成立したが、その実行が十分でないため、翌昭和二二年三月、アメリカはソ連に対し協定の厳重な履行を要求し、以後も総司令部又は連合国軍最高司令官からソ連に対し協定違反に対する抗議、声明、追及がたびたび行われた事実が認められるから、我が国政府の総司令部に対する働きかけの存在が推認されるところではある。
しかし、いずれにせよ、我が国の政府の果たした役割が顕著ではなかったとしても、連合国占領下の日本について、外交保護権不行使を理由とする国家賠償請求が成立する余地はないものというべきである。
次に、原告らは、被告が原告らに対する補償の措置を講じないと主張する。
これは、行政権の行使により原告らに補償をするためには根拠法令が必要であるから、ソ連に抑留され強制労働を課された者に対する補償の特別法を立法しない立法権の不作為を理由とする国家賠償の成否の問題であると解される。
ところで、国会議員も国家賠償法上の公務員であるし、同法一条一項にいう「その職務を行うについて」には公務員が一定の公権力の行使をすべき義務があるのにこれを行使しない不作為の場合を含むと解されるから、立法上の不作為も国家賠償法適用の対象となりうると解されるけれども、不作為が違法となるためには作為義務の存在が必要であって、国会は全国民を代表するところの国権の最高機関として立法権を有し、立法権の行使には裁量が伴うから、国会が特定の立法をしないことが違法とされるためには、右の作為義務が憲法上明文をもって定められているか又は憲法解釈上その義務の存在が明白な場合でなければならないと解される。しかるところ、前叙のとおり、原告らが被った本件損害は戦争損害に外ならず、これに対する補償は憲法の予定しないところと解されるから、憲法上又は憲法解釈上原告ら被抑留者に対する補償立法義務が存在するとはいえないといわなければならない。
以上の次第で、原告らの国家賠償法一条又は不法行為に基づく損害賠償請求は、理由がない。
第八安全配慮義務違反に基づく請求について
原告らは、原告らと被告との間の法律関係に基づき、被告は、原告らの生命及び健康等を危険から保護すべく配慮する義務を負っていたにもかかわらず、かかる義務を怠ったために、原告らのソ連抑留、強制労働を惹起したとして、その損害の賠償請求権を有すると主張する。
原告らが主張する安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方又は双方が相手方に対し信義則上負担する義務であって、国家公務員の場合には、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は国家公務員が国若しくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理に当たって、国家公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務といえるが、このような義務は、大日本帝国憲法のもとにおいて徴兵又は志願により軍務に就いている軍人と国との間でも、戦地において戦闘行為に従事し、敵の攻撃等により生命身体の危険にさらされることが当然に予定される軍務の特質から、一般の公務員に比しその適用範囲が制限されるにしても、存在しないものではないと解される。
問題は、いかなる事実関係について安全配慮義務違反が問われうるかにあるところ、原告らは、国がポツダム宣言を受諾し、大陸命第一三八六号をもって作戦任務を解いたからには、軍人と国との法律関係に基づき、原告らを可及的速やかに且つ安全に本土に帰還させる義務を負っていたのに、被告はこれを怠った、と主張する。
ポツダム宣言九項は、「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、知的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と定めており、我が国は、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたのであるから、日本軍は解体され消滅することになったのであるが、現実に連合国軍が日本を占領し、我が国の統治組織を支配下に収めるまでの間、軍及び政府はその機能を失ってはいなかったのであり、終戦時外地にある将兵を本国に帰還させることは、国として当然に執るべき政策であるといわなければならない。
しかしながら、国が無条件降伏をし、外地にある軍もこれに従う以上、軍の将兵は降伏敵国人員としてソ連の取扱いに委ねられることになるのは必然の成行きであって、降伏敵国軍人である原告らについて我が国の支配力が及ばなかったこと、ソ連の既定方針に従い原告らがソ連領内に移送されたことは前叙のとおりである。そうすると、ソ連による強制連行を阻止することができなかったという結果のみをとらえて安全配慮義務違反があったということはできないものといわなければならない。
原告らは、更に、軍人がその任務として戦闘行為に従事する場合には捕虜となることも当然に予想されるのであるから、国は、敵国の不当な処遇から自国軍人の生命身体を守るために、軍人に対し、捕虜が国際法上有する権利につき十分教育をしておくべきであるのに、被告はかかる教育を怠り、捕虜となるよりは死を選ぶよう教育していたため、ソ連による違法不当な取扱いを誘発し、倍化させた、とも主張する。
なるほど昭和に入ってからの日本軍部の捕虜についての認識が国際法の流れと必ずしも一致するものでなかったことは被告も認めて争わないところであり、「生きて虜囚の辱を受けず」との「戦陣訓」の暗誦が強制された(このことは公知の事実である。)日本軍においては、捕虜が有する国際法上の権利について十分な教育が行われなかったであろうことは、容易に推認できるところである。
しかしながら、日本の敗戦とこれによる第二次大戦の終結が既定の事実となっていた昭和二〇年八月八日にソ連が対日開戦をした意図の一部が我が国の満洲に有した物資と労働力・技術力を疲弊したソ連の国力の回復に役立てようとするところにあったこと前叙のとおりである以上、また、第二次大戦の終結後約一年間におけるソ連抑留日本人将兵の待遇がとりわけ劣悪であった前叙の事実によれば、原告らに対する抑留中の待遇が劣悪であったのは当時のソ連の国情が原因していると推認される以上、戦前の日本軍において捕虜に関する国際法教育を実施したとしても、それがソ連抑留中の原告らの艱苦を緩和するのに有効であったとは認められないものといわなければならない。
以上の理由で、原告らの安全配慮義務違反に基づく請求も、その余について判断するまでもなく、理由がない。
第九憲法一四条に基づく労働賃金請求について
原告らは、被告が第二次大戦後オーストラリア、ニュージーランド、イギリス、アメリカ及びその管理下の地域から帰国した日本人捕虜に対してはその抑留中の労働賃金に相当する金額を支払ったのに対し、ソ連から帰国した原告らを含む日本人捕虜に対しては労働賃金を支払わないのは、合理的理由のない差別であるとして、被告に対し、憲法一四条に基づき労働賃金支払請求権を有すると主張する。
被告が、第二次大戦後原告ら主張の地域から帰国した日本人捕虜に対し、同人らが所持する現金預り証、貸方残高証明書、個人計算カード等に基づき、抑留中の労働賃金に相当する金員の支払をしたことは第五の五で認定したとおりであるが、一方、原告らとソ連に抑留された日本人将兵に対して右に相当する金銭の支払がなされなかったことは弁論の全趣旨上当事者間に争いがなく、このように取扱いが異なることは、原告らソ連に抑留された者が帰国に際し現金預り証その他の書類を所持しなかった事実が原因しているとしても、不公平の観があることを否定することはできない。
しかしながら、先にも述べたように、憲法一四条は、国政の指導理念としての人間平等の原則を宣明する規定であるにとどまり、国に対する請求権を基礎づける実体法規ではないから、同条を根拠としては、原告ら主張の請求権は成立するに由がない。
第一〇給養費の支払請求について
原告らは、捕虜の給療費は所属国が負担すべきとの原則、原告らと被告との間との契約類似の法律関係、軍人に対する給養を定める実定法規のいずれの点からみても、原告らが負担した抑留中の給養費を被告が負担すべきことは明らかであるとして、被告に対して、俸給を除いた食糧、被服等の給養費の支払を請求するので、これについて判断する。
一まず、原告らは、捕虜の給養費は抑留国か捕虜所属国のいずれかが最終的に負担すべきであって、捕虜個人が最終的に負担すべきものではないが、本件のように、抑留国が捕虜に支払うべき労働賃金から給養費相当額を控除し、且つ、捕虜所属国が抑留国に給養費を支払わない場合には、抑留国は控除した捕虜の労働賃金をもって給養費に充当することになり、結局、捕虜が給養費相当額を捕虜所属国に立替払いしたことになる、と主張する。
捕虜の給養費については、ヘーグ陸戦規則七条一項は「政府ハ其ノ権内ニ在ル俘虜ヲ給養スヘキ義務ヲ有ス」(なお、二九年条約四条一項も「俘虜捕獲国ハ俘虜ヲ給養スルノ義務ヲ負フ」と同趣旨を規定する。)と規定しているが、これは現実の給養の実施義務を定めるだけで、給養費を抑留国において負担すべきことを定めたものではなく、負担の帰属国についてヘーグ陸戦規則は明文の規定を欠いているので、給養費の最終的負担国及び負担方法は、敵対行為終了後交戦国間の協議に委ねられることになる。
一方、ヘーグ陸戦規則六条一項、四項、五項、六項は、将校以外の俘虜を労務に使役することができること及び使役に対しては労銀を支給すべきことを規定し、同条七項は、抑留国が俘虜の労銀から給養の費用を控除することを許しているので、抑留国が右控除をした場合には、交戦国間の協議において俘虜の労銀の決済についても同時に取り決められることになる。そして、交戦国間の戦後処理として、捕虜の給養費の負担及び給養費を控除されて捕虜に支給されなかった労銀について決済の取決めがなされた場合には、給養費は、抑留国と捕虜所属国との間では右取決めに従って決済され、捕虜とその所属国との間ではその国内法令の適用によって、国内法令が存在しないときには立法によって、解決されることとなり、労銀についても同様に解決されることになる。
我が国とソ連との間におけるこの種の協定としては、昭和三一年一〇月一九日の日ソ共同宣言において、一九四五年八月九日以来の戦争の結果として生じた一切の請求権を相互に放棄しているが、これによって原告ら日本人将兵の給養費を日本とソ連のいずれが負担したことになるのかは判然としない。しかし、そのいずれであるにせよ、原告らに対する現実の給養がソ連によって実行され、その費用が日本又はソ連によって最終的に負担されたとすると、原告らの被告に対する給養費支払請求は成立しないことになる。
ところで、日ソ共同宣言において日本がソ連に対して請求を放棄した対ソ請求権には、原告ら日本人将兵の強制労働による賃金請求権が含まれると解されるが、前掲甲第一二一号証によれば、ソ連は当時二〇億ドルと推定された日本の官民の在満州資産の多くを収奪した事実が認められ、日ソ間の戦闘はソ連の一方的開戦と破竹の進攻の前に火器の装備に乏しく補充兵を主とする日本軍は自衛のための消極的抵抗に終始したことは公知の事実であって、ソ連の対日請求権にはこれといったものがないと考えられることをあわせ考えると、我が国が放棄した対ソ連請求権には右ソ連に収奪された資産についての請求権も含まれると解される。
そうすると、給養費を原告らソ連抑留日本人将兵が立て替え支払ったとの原告らの主張をそのまま正当としてよいかには疑問がある。
二次に、原告らはその労銀をもって給養費を支払ったことになるので被告に対し給養費支払請求権を有すると主張するのであるから、終戦後外地にあって交戦国に抑留された将兵についての給養費支払請求権の根拠規定を検討する必要がある。
そこで、この点について検討すると、<証拠>によれば、次の事実が認められる。
昭和二〇年八月当時、日本陸軍将兵に適用される給養に関する法令には、昭和一八年七月二八日公布の勅令第六二五号大東亜戦争陸軍給与令及び同年八月二〇日公布の陸達第六七号大東亜戦争陸軍給与令細則があった。
大東亜戦争陸軍給与令によれば、被服については、営内居住の下士官・兵及び諸生徒に対しては同令別表第一〇表に掲げる被服中所要の物を支給又は貸与し、営外居住又は外宿の現役下士官には第一〇表に掲げる被服中特に必要とする物に限り支給又は貸与する現品の支給に代え被服料を給することができ(同令二五条一項、二項)、軍隊(陸軍兵時編成に謂う軍隊等。同令三条一項)勤務の尉官及び准士官にして中隊において服務するものには被服手当を支給するが(同令一六条一項六号)、陸軍大臣の指定するものには第一〇表に掲げる被服中所要の物を貸与して被服手当の支給を停止又は減額し(同令二六条)、糧食については、営内居住の下士官・兵及び諸生徒の糧食は別段の定めある場合を除く外は官給とし(同令二八条一項)、軍隊等に対しては糧食の官給を受くべき下士官・兵及び諸生徒の現人員数に応じ糧食の定額を交付し当該部隊長にその経理を委任し(同令三〇条一項)、内地又は外地にあって出戦又は戦備の態勢を完成した部隊に属する軍人(現役にある者及び召集中の者をいう。同令三条二号)等並びに内地又は外地において特別の命令により対敵の行動をとり若しくは対敵の配置に就く部隊に属する軍人等に対しては陸軍大臣の定めるところにより適宜必要と認める糧食品等を給し又はその代金を給することができる(同令三四条)とされていたが、同令中の戦地給与の特則によると、戦地に在る営外居住下士官には第一〇表及び第一一表に掲げる被服中所要の物を支給又は貸与し、戦地にある准士官以上及び軍属には必要に応じ陸軍大臣の定めるところにより一時第一〇表に掲げる被服中所要の物を貸与し(同令四四条)、且つ戦地にある軍人・軍属及び諸生徒の糧食はすべて官給とし現品をもって給するが便宜により代金を給することができる(同令四五条)とされ、同令二九条ないし三六条の規定は戦地にある部隊には適用しない(同令四六条)とされていた。
ところで、我が国の無条件降伏及び軍の解体に伴い、旧日本軍の将兵の身分も消滅すべきものとなったが、現実に復員するまでは国として旧軍将兵の身分を温存し且つ留守家族の援護を図る必要があったため、第一復員次官により昭和二一年五月一五日一復第九〇七号「在外者の給与に関する件第一復員官署一般へ通諜」が発せられた。これによると、「在外者の給与に関しては昭和二十一年四月一日から今迄の規定によることなく左記によることと定められた」とされ、「左記」の「一」には、「在外者給与規程(別冊)」があるところ、その在外者給与規程によると、外地又は外国にある陸軍部隊に属している軍人軍属(これを在外者と規定している。)には復員する月まで別表第一(引用は略す。)の俸給を支給する(同規程一条)とされ、その外臨時物価手当、臨時家族手当、臨時手当及び帰郷旅費等に関して規定されているが、これには被服及び糧食等に関する規定がない。
次いで、政府は、昭和二二年五月一七日政令五二号「昭和二〇年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基き陸軍刑法を廃止する等の政令」を公布し、その附則七条「この政令施行の際現に陸海軍に属し復員していない者は、その者の復員するまで、従前の業務に相当する未復員者としての業務に秩序を保って従事するものとし、給与についての取扱いに関しては、従前の例による。」によって従前の軍人軍属はその身分を失い、未復員者なる身分を有することになった。
同年一二月一五日法律一八二号として公布された未復員者給与法は、未復員者に支給する給与として、俸給、扶養手当及び帰郷旅費の三種のみを定めた(同法二条)が、附則一二条で、「昭和二十二年政令第五十二号(陸軍刑法を廃止する等の政令)第七条中「関しては、」の下に「未復員者給与法に定めるものを除く外、」を加える。」と規定し、未復員者給与法の外に前記政令五二号も適用されることを明らかにしている。
以上のとおり認められる。
そうすると、昭和二一年五月一五日一復第九〇七号第一復員次官通諜によれば、大東亜戦争陸軍給与令は適用されないこととなったものと解せられ、この扱いは前記政令五二号及び未復員者給与法に引き継がれていることになるので、実定法上、ソ連抑留日本人将兵に対して被服及び糧食を支給すべしとの規定は存在しなかったものといわなければならない。
もっとも、前記第一復員次官通諜は昭和二一年四月一日から適用されるものであるから、それ以前の給養については前記大東亜戦争陸軍給与令の適用が問題となる。
しかしながら、捕虜として交戦国に抑留された将兵に対する被服及び糧食については同令に規定がないけれども、これは戦地にある軍人軍属に対する被服糧食に給与規定をそのまま適用すべきものとの前提に立つためであるとは解せられず、捕虜として抑留された将兵の給養は捕虜の取扱いについての国際法規の適用と交戦国間の協議によって処理されることが予定されているものと解するのが相当である。
三以上の次第で、原告らの給養支払請求は、その余を判断するまでもなく、理由がない。
第一一原告上野久及び同早川鐡也の請求について
原告上野久及び同早川鐡也の両名が元来日本軍の将兵ではなかったが、日本人捕虜としての扱いを受けたことは前叙のとおりである。
このような原告両名が、国際法上捕虜の地位を有するか、また我が国内法上軍人軍属と同様の法的地位にあるかは、問題ではあるが、これらを肯定したとしても、その余の原告らについてと同様に、請求は理由がなく、失当であるといわなければならない。
第一二結論
以上のとおり、原告らの請求はいずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官木下徹信 裁判長裁判官稲守孝夫及び裁判官飯塚宏はいずれも転補のため署名押印できない。裁判官木下徹信)
別紙<省略>